家康はちょっと意地悪い気持ちになって訊き返してみた。 「頼朝公は、そのかみ、なんでわざわざ鎌倉の地を選ばれたのでござりましょうな」 「ハハ・・・」
秀吉は屈託 なげに笑って、 「いざ鎌倉というからの。それで選んだのだろうて」 家康もまた生
まじめに応じていった。 「いざ鎌倉が、そうたびたびあってはかないませぬなあ」 「では、鎌倉はやめになさるか」 「はい、鎌倉でも、まだ、片寄りすぎておりますようで」 「偉い!」 秀吉が無心に同意したので、家康はホッとした。 こんどの移封では、家康には家康で、自分を納得させるだけの夢と構想は持っていた。 重臣たちの間では、まだ関八州の代わりに、三河以来の旧領をそっくり没収されるとは思わずにいる者が多い。 家康は、それをあえて知らそうとはしなかった。 小田原が落ちればそれは正式に発表されていやでも分ることであった。 その折に家康は、みなの不平を転換させる策として、一つの物語を構成しかけている。 それは彼の家系と、愛読書の吾妻鏡がもたらした着想だったが、彼の遠祖は、上野
の新田 氏から出ている源氏と言われている。 その源氏が得を得て、再び関八州へ戻るというのは、人知では計り難い深い因縁によるものゆえ、ここへ根をおろして励もうぞという筋立てだった。 その筋は、励めばやがて
「征夷大将軍」 という源氏の長者
ならでは掴み得ない幸運に近づけるぞという、大きな暗示に発展する・ 秀吉も 「征夷大将軍」 として武家の総大将になりたかったのだ。しかし、彼には源氏を名乗る家系の裏づけはなかった。そこで関白という公家
の系統によりどころを求めて、豊臣氏と名乗ったに過ぎない。 もう一つ、家康の着想には外部的な大きな意味があった。 何と言っても関東は源氏の地盤、いまだに家系の中へ、その恩顧
を銘記している荒武者が多い。それらを押えて立つ上に、 「── 徳川は新田源氏ぞ」 大将になるべき者が時を得て、所縁の旧地に君臨するのだという宣伝は、決して小さな影響ではない・・・・ そうした着想を持つ家康だけに、ここでは特に鎌倉の地名を警戒して、秀吉にわが構想を悟られまいとするのであった。 「偉い!
鎌倉はすでに時代遅れじゃ。水軍がこのように発達してはのう」 「仰せのとおり・・・・が、さて、それではいずれの地がよいかとなると、なかなかもって決しかねまする」 「フフ・・・・、そうかの。わしには一つ、ここぞと思うところがある」 「はい、家康にも、全然なくはござりませぬ」 「どこじゃ。それを言いあって見ようではないか」 「はい、京に対する大坂のように」 「京に対する大坂のように・・・・」 「鎌倉に対しては、隅田川、荒川の出口にあたる江戸さたりが・・・・」 家康がそこまで言うと、秀吉はまたドスンと家康の肩を叩いた。 「おなじじゃ。江戸!」
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