〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/10 (金) 東 へ の 道 (二)

並んで立っている望楼は、風もないのに、静かに鳴っているようだった。
眼を足もとに落とすと、数段下に積みあげられた石垣の肌が見える。その下はえぐ り取られたような深い谷になっていて、いちばん底には薄く霧がかかっている。
(よくもこんな所にこんなものを築いたものだ)
むろんここに永住できるはずはなく、秀吉にはその心があとうとも思われぬ。それなのに、惜しげもなくこの築城をあえてする・・・・そこに秀吉の端倪たんげい すべからざる偉大さと、見栄のためには、計算を忘れてゆく性格の危さとが共に んでいる。
家康は、肩を叩かれてハッとしたように顔をあげた。
「どうじゃ、ここから並んで尿を放って見ぬか」
秀吉はまた言った。
ただ言うだけではなくて、すぐにも行動に移りそうな、悪童のような眼つきであった。
「とんでもないことを!」
家康はあわてて手を振って、手すりのそばを一歩離れた。
「家康は、まだ、関八州へ向けて、尿を放つほど大胆にはなれませぬ」
「ハハ・・・・高い所から低い所へ放つのじゃ。関八州と思うことはあるまい」
「いやいや、関八州、関八州・・・・せっかく頂戴ちょうだい しても、これを活かし得なければ、神仏に合わす顔がござりませぬ」
「大納言よ」 と、秀吉は眼を細めて、
「お身があまり熱心ゆえ、言わいでものことを訊くのじゃが、どうじゃな、この小田原城は?」
「と、仰せられると、いつ降伏するかという意味で?」
「いやいや、降伏は一両日中じゃ、そんなことではない。関八州の主として、百年の計を建つる、お身の居城になるかどうかと訊いているのじゃ」
家康は、用心深くかぶりを振った。
「ならぬと、見ておられるか」
「ここでは、少々片寄りすぎておりまする」
「さすがじゃ! ここは重臣のうち、心利いた一人を置けばよい。すると、お身は鎌倉の地を選ばれるお気持かな」
家康はハッとしたように秀吉を見返って、すぐには返事をしなかった。
「愕かれるな。お身が鎌倉幕府草創そうそう のころからの日記・・・・吾妻鏡あずまかがみ とか申す書物を、熱心に読んでおられること、黒田官兵衛に聞いておるわ」
「これは恐れ入りました。関八州を賜れば、頼朝公が、そのかみの坂東ばんどう 武者むしゃ を、どうあしろうたかを知っておかねばならぬことと・・・・」
「さすがじゃ! さすがに大納言、そのお心掛けは恐れ入った。しかし鎌倉は避けたがよいぞ」
家康は用心深く、それにもすぐには答えなかった。と言うのは、家康も、鎌倉ならば小田原でもよい、と、すでに思案し、検討し尽くしていたからだった。
鎌倉はいわば関東の古都である。そこへ居城を築くとなると、すぐさま秀吉に警戒される。
古都はそのまま覇府はふ を、覇府の主は天下を狙うという思考の誘導におちいりやすい。
(そのような地は避けねばならぬ・・・・)
それに鎌倉は、戦略的に見ても出入り口を断たれて、海上から攻め立てられると、すぐにも窒息ちっそく しそうな半島であった。
「どうじゃな、」やはり鎌倉かな?」
秀吉は、また探るように言った。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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