並んで立っている望楼は、風もないのに、静かに鳴っているようだった。 眼を足もとに落とすと、数段下に積みあげられた石垣の肌が見える。その下は剔
り取られたような深い谷になっていて、いちばん底には薄く霧がかかっている。 (よくもこんな所にこんなものを築いたものだ) むろんここに永住できるはずはなく、秀吉にはその心があとうとも思われぬ。それなのに、惜しげもなくこの築城をあえてする・・・・そこに秀吉の端倪
すべからざる偉大さと、見栄のためには、計算を忘れてゆく性格の危さとが共に棲
んでいる。 家康は、肩を叩かれてハッとしたように顔をあげた。 「どうじゃ、ここから並んで尿を放って見ぬか」 秀吉はまた言った。 ただ言うだけではなくて、すぐにも行動に移りそうな、悪童のような眼つきであった。 「とんでもないことを!」 家康はあわてて手を振って、手すりのそばを一歩離れた。 「家康は、まだ、関八州へ向けて、尿を放つほど大胆にはなれませぬ」 「ハハ・・・・高い所から低い所へ放つのじゃ。関八州と思うことはあるまい」 「いやいや、関八州、関八州・・・・せっかく頂戴
しても、これを活かし得なければ、神仏に合わす顔がござりませぬ」 「大納言よ」 と、秀吉は眼を細めて、 「お身があまり熱心ゆえ、言わいでものことを訊くのじゃが、どうじゃな、この小田原城は?」 「と、仰せられると、いつ降伏するかという意味で?」 「いやいや、降伏は一両日中じゃ、そんなことではない。関八州の主として、百年の計を建つる、お身の居城になるかどうかと訊いているのじゃ」 家康は、用心深くかぶりを振った。 「ならぬと、見ておられるか」 「ここでは、少々片寄りすぎておりまする」 「さすがじゃ!
ここは重臣のうち、心利いた一人を置けばよい。すると、お身は鎌倉の地を選ばれるお気持かな」 家康はハッとしたように秀吉を見返って、すぐには返事をしなかった。 「愕かれるな。お身が鎌倉幕府草創
のころからの日記・・・・吾妻鏡
とか申す書物を、熱心に読んでおられること、黒田官兵衛に聞いておるわ」 「これは恐れ入りました。関八州を賜れば、頼朝公が、そのかみの坂東
武者 を、どうあしろうたかを知っておかねばならぬことと・・・・」 「さすがじゃ!
さすがに大納言、そのお心掛けは恐れ入った。しかし鎌倉は避けたがよいぞ」 家康は用心深く、それにもすぐには答えなかった。と言うのは、家康も、鎌倉ならば小田原でもよい、と、すでに思案し、検討し尽くしていたからだった。 鎌倉はいわば関東の古都である。そこへ居城を築くとなると、すぐさま秀吉に警戒される。 古都はそのまま覇府
を、覇府の主は天下を狙うという思考の誘導におちいりやすい。 (そのような地は避けねばならぬ・・・・) それに鎌倉は、戦略的に見ても出入り口を断たれて、海上から攻め立てられると、すぐにも窒息
しそうな半島であった。 「どうじゃな、」やはり鎌倉かな?」 秀吉は、また探るように言った。 |