〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/10 (金) 東 へ の 道 (一)

秀吉と家康は、さっきから、石垣山の一夜城の望楼に立って、海ぎわの早川口から東へのびた小田原城内の街並みを見下ろしていた。
「ここから一発、ドスンと大砲を打ち込んだら、愕くであろうの大納言」
「仰せのとおり」
「考えてみると・・・・人間というものは、賢いように見えて、その実ひどく愚かなものだ」
「で、ござりましょうかな」
「北条父子が、もう少し従順だったら、わしはお身に関八州をそっくり進上しようなどとは思いつかなかったであろう。さすれば、その愚かさもまた時にとっては役に立つ・・・・とも、言えるのだが」
そこまで言って秀吉は、家康が、自分の言うことなど少しも聞いていないのに気がついた。
秀吉はニヤリと笑って、これも口をつぐんでゆく。
家康が何を考えているかが、秀吉にはよくわかるからであった。
(剛腹そうに見えても、やはり転封てんぽう が心配なのだ・・・・)
かって信長は、この手で光秀の叛逆を激発した。旧領を召し上げる代わりに、山陰三カ国の新領をみずからの手で戦い取れ・・・・信長がそう言ったのは、中国征伐に出てゆく光秀への、大きな激励の言葉であった。
しかし、光秀は、それを信長の自分に対する憎しみと受け取って、本能寺の大変を引き起こした。
秀吉は、信長ほど不用意ではない。家康の不満も不安も充分に計算に入れた上、引くべき綱は引き、ゆるむべき綱はゆるめてある。
「── うぬの力で戦い取れ」
そう言う代わるに、
「秀吉が、関八州を斬りとって進ぜよう」
そう言って、事実、上杉を動かし、里見さとみ結城ゆうき佐竹さたけ伊達だて と降していって、前田利家、浅野長政、真田さなだ 昌幸、石田三成、大谷吉継、長束なつか 正家まさいえ らを、徳川勢と共に前線に派遣して転戦せしめている。
その意味では 「斬り取って進ぜよう ──」 そう言った秀吉の言葉は充分そのまま天下に通用するはずであった。
(しかもなお家康は不安なのだ)
秀吉はそれがおかしくもあり、気の毒でもあった。
いかなる場合にも、秀吉に対抗できる足場として、営々と固めて来ている三河、遠江、駿河の地は、秀吉が考えても惜しくてたまるまいと思われる。
おや、甲州にしても信州の一分にしても、家康とその家臣にとっては、たしかに心血をそそ いで経営に当たって来た土地であった。
関八州は進上するというと聞こえはよいが、裏を返せば、それらの旧地を召し上げられるということにもなる。
その意味では重臣たちも不満であろうし、本多作左衛門重次が、秀吉の前で家康に喰ってかかった意味もよくわかる。しかしそのために秀吉が、家康に同情しなければならないいわれはない。
問題はしごく簡単だった。
家康はついに秀吉に屈服したのだ。その屈服の裏には 「敵し得ない ──」 という力の比較と計算がげん として存在する。
(長くかかったぞ。この男には・・・・)
秀吉は、じっと下界を見おろして立っている家康に近寄って、その肩をポンと叩いた。
「どうじゃ大納言、ここからひとつ尿いばり を放ってみぬかな。いい気持になろうぞきっと」

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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