〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/07 (火) 人 み な 醜 く (三)

光悦が今井の本陣を訪れたとき、家康は、本多佐渡を相手に、しきりに侍帳を繰りながら筆を入れていた。
「── 光悦か、殿下のご機嫌はどうじゃの」
ちらりと視線を移しただけで家康は言った。
「── いよいよ一夜城 (石垣山の城) も出来上がる。北条父子のことも今しばらくじゃの」
「── と、仰せられますると、講和のこと、北城どのはご納得なされましたので」
「── 何の、もはや内通者が現れだしたというのに反省もせぬ。みずから招いた滅亡じゃ」
「── えっ! それでは上様は、格別両者の間を、おとりなしにはなりませぬので」
「── 相手が悪い。愚かにすぎた」
その家康のあとから本多佐渡がたしなめるように言い添えた。
「── 光悦、本日は上様はお忙しい。ご機嫌奉伺ほうし が済んだら退るがよいぞ」
「── は、・・・・はい。しかし」
「── 何か、おうかがいしたいことがあったら、またのおりにせよ。上様は今日は関八州への手配りを遊ばされておわすのだ」
「── あの、関八州への手配り・・・・?」
「── 聞き及んでいるであろう。北条氏の所領はそっくりご当家へお引渡し下さることとなった。渡されるものと決まれば、そうそう殿下の軍勢に頼ってばかりもおれぬ。当家からも急所急所に兵を出して押さえさせねばのう・・・・」
光悦は、わなわなと震えながら家康のもとを辞した。
(こんなはずではなかった・・・・)
家康だけはどこまでも愛婿まなむこ のために苦慮しているものと信じていたのにその逆であった。
(ことによると始から秀吉と家康とは・・・・)
そう考えると、光悦は、道で出会おう誰からにまで、唾を吐きかけたいような衝動にかられた。
みんな口先だけでは正義を唱え、立正をいいながら、その実、いざとなるとみなわが欲望のために動いてゆく。それを知らなかった北条父子の方がまだものもしい好人物だったのかも知れない ──
家康の本陣を出ると、町ごとそっくり城郭内に籠城ろうじょう の形をとっている城の北方の小道を抜けて湯本の谷へ戻りながら、光悦は、自分が今どこを歩いているのか? それさえハッキリしなかった。
(これが世のまことの姿・・・・)
それなればこそ祖師日蓮にちれん は、あのように口をきわめて、権力者を罵倒したのに違いない。
(自分は、なぜ、もっと秀吉と家康とを罵り、あざけってやらなかったのか・・・・?)
湯本へ戻りついたときはもうあたりはほの暗く、そこここに名物の蚊柱かばしら が立ちだしていた。
その間を光悦は、憑かれたもののように歩いた。
そして、目の前に小さないおり をみつけてハッとして足を止めた。
(あ、自分は、利休を訪ねようとしていたものらしい)
たぶんここだけは濁世じょくせ の汚辱はあるまいと、意識の外で考えて、ここを慕って来たのに違いない。
「そうじゃ。ここではらわた を洗わねばやりきれぬ・・・・」
声に出してつぶやいて、光悦は利休の小庵の柴折戸しおりど を入っていった。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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