「フーム」
と、秀吉も唸った。 「なるほど、あれが、本多作左か」 家康はおだやかに一礼して、 「家康が周囲には、あのような田舎者ばかりが多くてほとほと困り入りまする」 「フーム」
秀吉はもう一度唸った。 もはや彼の顔には怒りはなくて、ふしぎな感動がうかんでいた。 「罵
ったのう思い切り・・・・このわしまでを叱りおったわ」 「お許しおき下されませ。作法もわきまえぬ頑固一徹な年寄りにござりまする」 「許すも許さぬもない。お許
の家来に差し出口はせぬ。しかし珍しいことじゃ。このわしゆえ怒らぬが、ほかの者ならばその場を去らせず無礼討ちにしたかも知れぬ。・・・・ワッハッハッハ。もうよい。とんだ座興
であった」 こうして、作左のことはそのまま、やがて家康から秀吉に、近藤
松林 の点前
で茶を献 じて、それから戦評定に移っていったのだが、本多作左衛門の方はこれでは済まなかった。 彼は、胸をそらして大広間を退ってゆくと、すぐさま虎口
御門の外にある自分の長屋に引き上げていった。 まだ陣中にあるとばかり思っていた作左衛門が、ひとりでひょっこり戻って来たので妻女はびっくりして、 「何となされたのでござりまする!」 日暮れの玄関に両手をついたまま、すぐにすすぎも持って来なかった。 作左は答えもせずに居間へ通ると、太刀を刀架にかけて具足を解いた。 大広間で、その後秀吉と家康の間にどのような問答が交わされてゆきかよくわかる気がする。 とにかく、あれだけ二人を無視して、思うままに放言したのだ。これで思い残すことはない。ただ、この暴言の中から家康が作左の贈り物に気づいてくれたかどうか?
「硯 !」 と、作左は、おずおずついて来ている妻女に言った。 「はい。でも、何となされたのでございます。伜
どもと一緒に、ご陣中にあるものとばかり思うておりましたのに」 作左はそれにも答えず、チビた筆の穂尖
を噛みながら、墨を磨った。そして、巻紙をひろげて書くべき文句を口の中で吟味した。 「── もはや、これまでの老臣どもはご奉公できる限界に達している。徳川家が大きくなりすぎたのだ・・・・ここで関東への移封のあかつきは、これを殿の再出発として、古い者は退け、新しく天下に臨むため、選りすぐった若手の陣容で発足されたい」 引退すべき古い連中に先鞭
をつけるため、頑固者は頑固者らしく最後の気魄
をとどめて去ってゆく・・・・そうしたことが、一行か二行で書きたいのだが、思うまま思案は文章にはならなかった。 「何を認
められるのでござります。気にかかる。お顔の色が冴えませぬ」 「案ずるな。作左は、思い切りわがままを通して来たのじゃ。石川数正に負けぬわがままをな・・・・」 「石川どのに負けぬわがままを・・・・?」 「そうじゃ。あいつは主家を捨てて裏切り者の名を取った。その代わりに小田原陣が済めばいっぱしの大名であろう・・・・が、この作左は殿の前にも秀吉の前にも出られぬ宿無しになって来たわ」 妻女は怪訝
そうに首を傾けて膝をすすめた。 |