〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/07 (火) 生 れ 来 し 塔 (十五)

作左はとうとう筆を投げ出した。
なまじ書き残したりするよりも、このままの方がよいと思い直したのだ。
何も書き残さずとも、わかるものはわかり、わからぬものはわからぬのだ。
ただ家康は、こうした作左の身の引き方で、作左同様の扱いにくい老人たちを第一線から引っ込める口実は掴むであろう。
「わがままついでじゃ。観賞は神仏に任せておこう」
「何かあったのでござりまする!」
「何もない。ただわしは奉公がいやになったゆえ、殿を頭ごなしに叱りつけて出て来たのじゃ」
「ど・・・・ど・・・・どこで、そのような」
「関白の前じゃ。案ずるな。びっくりしているのは殿ではなく関白であろう。殿はな、関白の機嫌を取ってとく をする気じゃ。それがわしには歯がゆいのだ。わしは関白を怖れさせて得を取れ! そう言いたい・・・・怖ろしくない奴・・・・と、思われたときには、徳川家は終わりなのだと決めつけたかったのじゃ」
「さあ、何のことやら、とんと・・・・」
「わからぬでよい。これはどこまでも作左がわがまま・・・・ハハ・・・・女房、こなたも長い間ご苦労だった!」
「と、おっしゃると、これから・・・・」
「切腹するのよ。はや、何もすることがない」
「そ、それはあんまりな!」
「そうじゃ。こなたにとってわしは身勝手な亭主であった。しかし於仙おせん もあること、わしが死んでもこなたの人生は於仙と共に別にある」
そういうと作左ははじめてフフフフと笑った。笑いながら、なぜか涙がこみあげた。
人間というものは、なんという厄介やっかい な虫であろうか。私欲のために転ばぬ男であろうとすれば、吹き出したくなるほどおかしな意地の虫になってゆく。
数正もそれであったが作左も輪をかけた道化者なのかも知れない。南無阿弥陀仏という代わりに、主君と関白を叱りつけて、それを誇りに浄土をめざすとは・・・・
「ハハハ・・・・」
「まあ、なんとなされたのでござりまする」
「おかしくてたまらぬのよハハ・・・・」
「おいて下され。気味のわるい。それよりもなぜ切腹せねばならぬのか。子孫のためにそのわけ聞かせて下さりませ。聞けばわたわも武士の妻、未練にお止めはいたしませぬ」
「ハハ・・・・それが口では言えぬ。ただおかしいばかりでのう」
作左は笑いながら目頭の涙を拭いて、こんどはしみじみとわが女房に向き直った。
そしてそこに働き続けて老いた一人のむさくるしい老婆を見出すと、一層おかしさと哀れさがつの っていった。
「婆、人生とはこんなものぞ。受け取れたか」
「いいえ、何が何やら・・・・?」
「それ、それ、その何が何やらわからぬうちに、しわ くちゃになって召されてゆくのが人間と受け取れぬか。おかしなものよ。ハハハ・・・・こりゃたまらないおかしさじゃ」
作左はまだ笑いつづけていて、そのころ、家康の命で、そっと庭先へ、彦左衛門がしのんで来て様子をうかがっているのを知らなかった。
「ハハ・・・・あの関白も、殿も、いまに干し固めた梅干しじゃ。みんな干からびて死んでゆく。ハハハ・・・・これがおかしいのじゃ」

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ