家康は幔幕のうちに入ってもう一度首をかしげた。幕は一重
に張ってあり、二十坪あまりの内部には全く人影はなかった。 「この奥におわしますれば」 と、三成は正面を指差して一礼した。 なるほど、そこにもう一つ大きく左右に五三の桐が向かい合って入り口をなしている。 人を遠ざけ、他聞
をはばかっているのであろう。家康はつかつかと三成の前を通って奥の幕へ入った。 「おお大納言か。よう来られた」 入ると同時に秀吉の声であった。 京では、いつも自身で立って来て抱かんばかりにして迎える秀吉が、今日は大きな樟
の木の下に床几を据えて反り返ったままであった。 家康は立ちどまって、まじまじと秀吉を見やった。 噂には聞いていたが、なるほどこれは奇妙ないでたちだった。唐冠
の兜が変わりすぎているところへ、歯を染めて熊の毛の一抱えもありそうな髭をつけているので、とっさには顔の主
も見分けもつかない。それに金こざね
の緋縅 に角
つばの二本太刀。うしろの樟の幹には真っ赤に塗り上げた玩具のような十文字の大槍が立ててある。 どうみてもそれは判じようのないおかしさだった。 「大納言、わしじゃ。わからぬのか」 言われて、家康は鄭重
に頭を下げた。 「お声は殿下にまぎれもない。それにしても、このように離れた場所に殿下お一人・・・・」 「富士を見ていたのじゃ」 と、髭が動いた。 「あの富士も、わしのものじゃと思うと、人に見せるには惜しい。一人で飽くまで見とうなった。ときに大納言」 「はい」 「道中の礼は後のこととして、駿府城へ仮泊の用意、ぬかりなくしてあろうな」 「いかにも。実は明日城にまかってご挨拶申し上ぐる予定でおりました」 「と言うが、そうはならぬぞ。お許
、このあたりの噂を耳にせぬか」 「噂・・・・と仰せられますると?」 「駿河大納言は、小田原と示し合わせて、駿府城内にてわれを討ち取るてはずとある。しかとさようか」 「これはこれは」 「家康は思わず大きく頬を崩して、 「とんだ噂が立ちましたもので。おおかた、あまり殿下が上機嫌にわたらせられるゆえ、からかう気で申したものでござりましょう」 「なに、この秀吉をからかうと!?」 「ハハ・・・・さなくば、まさかそのような・・・・」 「よしッ。お許がそう申すならばそれでよい。もろもろの打ち合わせは駿府でしよう。大儀であった。帰ってよいぞ」 家康は唖然とした。 いつもの秀吉とは違いすぎる。顔はよく見えないが、声は確かに秀吉・・・・とわかるだけであとはただ髭だけが喚
いている。 家康は一礼して出口へ向き直った。 と、間髪
をいれずにまた気合のように大きな秀吉の声であった。 「待てッ! 大納言」 家康はゆっくりと振り返り、こんどはかすかに 「あ ──」 と言った。 床几から踊り上がるようにして立ち上がった秀吉が、樟の幹に立てかけてあった十文字の槍をとって、りゅうりゅうとしごいている・・・・ |