〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/06 (月) 生 れ 来 し 塔 (九)

「それはなりませぬ!」
と、三成はさえぎった。
「殿下ご自身試すなどと、そのような軽々しいこと・・・・もし御体に、万一のことがござりましては取り返しがつきませぬ」
この三成の反対は、かえって秀吉の好奇心を逆にあおる結果になった。
「何の、欲しいと思えば、この年になっても子宝まで恵まれる神変不思議な秀吉じゃ。家康ごときに計られるようならば計られて終わるがよい。のう長政」
「それがしは、大納言に野心などみじんもないと信じまする」
「それゆえ、どちらが当たっているか試みるのじゃ。よし、十九日、宇津うつ ノ山を越えて駿府に入れとある。入る前に、そうじゃ、手越てごし まで家康に出迎えるよう申し送れ。治部、案ずるな、そこでわし自身が試してみて、あやしい節があったら駿府城へは入らず、そのまま沼津へおもむくわい」
「しかし、それではあまりにも軽々しいかと・・・・」
「運試し、運くらべ・・・・まあ任せておけ」
秀吉は何か浮きうきと楽しそうであった。
むろん彼は小田原城の攻略などさして問題にはしていない。それよしも、ここで家康を関東に追って、箱根以西の地をがっしりと腹心で固めてしまうこと、伊達だて 政宗まさむね を呼びつけて叱りつける腹案、などでいっぱいだった。
そのほかにもう一つ、この征旅せいりょ を絶好の機会として、正室と淀の者との順序、鶴松丸と甥の三次秀次の後継の問題など、すべて一気に片付けようという夢がある。
(その秀吉が何で幸運の星に見放されてよいものか・・・・)
その意味では、家康を自身で試して見ようという思いつきは二重に楽しい。
一つにはわが幸運を確認し、二つには旅のつれづれを慰め得る。
おそらく家康も、邪心がなければ、いよいよ秀吉をおもしろい人物として畏敬するに違いない。
その十九日がやって来た。
秀吉は宇津谷峠を越えて安部あべ 川の手前の手越までやって来ると、ここに陣幕を張らせて小憩を命じた。
秀吉の方は思いつきを楽しんでいるのだからよかったが、家康は、味方の陣屋を見廻っている途中で、わざわざ出迎えを命じられたのだから笑いごとではなかった。
それぞれ案内や接待は係を決めて、手落ちのないよう駿府城へ導き入れ、そこで対面する手はずだったのが、急に手越まで出迎えよという。
(何かあったかな?)
内心ではいぶかしみながらやって来た。
「これは遠路大儀でござった。家康お出迎えにまかったとお取り次ぎ願いたい」
幔幕まんまく の周囲に案外人影の少ないのを見きわめて、奉行の石田治部に申し入れると、石田三成は、
「陣中なれば、大納言さまお一人でお通り下されたい。殿下もお一人・・・・一人と一人でご対面なさりたきおぼ しにござりまする」
家康は、ふと小首をかし げかけたが、すぐさまうなずいて、
「ご案内を」
肥った体をゆすって、三成のあとから幔幕をくぐっていった。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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