〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/04 (土) 生 れ 来 し 塔 (一)

本多作左衛門は、岡崎を引き払って駿府へやって来ると、石のようにもの言わぬ人になった。
秀忠が京を発った日が正月十七日。二十五日駿府帰着と同時に、瑞竜寺ずいりゅうじ で内々に、御台所逝去せいきょ の仏事があった。
朝日御前の逝去のさまは大久保彦左衛門がこまかく作左衛門に知らせたのだが、そのときも一言も口を利かなかった。
表向きの逝去は十四日。はじめ南都から有馬へ湯治とうじ におもむき、不治とわかって聚楽第へ帰りそこで息を引き取ったと発表された。ただ、小田原出陣の顔ぶれが二十一日すでに発表されていたので、戦時中なればという理由で葬儀は後のことと見送られ、秀忠との体面のことなども、すぐ戦備のかげへ隠れていった。
徳川家の家中では、いまだに朝日御前への反感が消えていない。
それだけに、秀吉と秀忠の対面の日に、織田信雄の姫と秀忠との間に仮り祝言のあったことなどもことさら発表されなかった。
「 ── おかしなことよ。殿は、関白と若君ご対面のことを、細川忠興ただおき どのにこまごまと頼んでやられた。それで井伊直政と細川の介添かいぞ えで、ご祝言まで済まして来たというのにその事は発表されぬ。衣服や太刀のことは御台所さまや大政所のきも入りと聞く。これも一言も言わっしゃらぬ」
彦左衛門が、例の探るような眼つきで作左衛門に話しかけると、作左はプイッとわきを向いただけであった。
「話さぬが当然とご老体は思わっしゃるのか。これから仲よく小田原陣・・・・話した方がよいと思うのは、この彦左の誤りであろうか」
すると、作左はわきを向いたままで、
「── おぬしは兄より人がよい」
つぶやくように言っただけなので、彦左衛門にも、作左が何を考えているのか皆目見当がつかなかった。
そのころは二十一日の動員令で、続々駿府へ諸将が詰めかけだしていたせいもあったが・・・・
こうして朝日御前は、京の東福寺塔頭たっちゅう に葬られ、南明院なんみょういん 光室こうしつ 総旭そうきょく 大姉だいし としてあわただしくその生涯を人々の記憶の中からかき消され、家中はあげて小田原征伐の戦備に没頭しだしていった。
本多作左衛門にも新しい命令が手渡された。
本多佐渡守正信とともに、秀吉のやって来る通路と諸城の掃除 かりであった。
そのときも作左は意見らしいことなど一言も家康に言わなかった。家中へはあわただしい人の動きと共にしきりに流言が飛び出している。
「── お館は京で関白と密約を結んで来られたそうな」
「── 何の密約じゃ?」
「── 知れたこと、小田原への先陣じゃ」
「── バカなこと、それでは向うの思う壺ではないか」
「── いや、そうではに。その代わり、御台所さまがご逝去なされても若君を人質に取らなんだ。そして氏直を討ち取ったら、褒美に関八州を下さるという・・・・それでお館も張り切っておわすのじゃ」
作左衛門はそうした噂を耳にすると、べっと唾を吐いて、さっさとその側を通りすぎた・・・・

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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