〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/03 (金) 小 田 原 進 撃 (九)

「なるほど、そうかも知れぬ」
彦左衛門はじっと作左衛門に視線を据えたまま、
「そうなると、もう一つ秀吉には大きな利がござりまするなあ」
「そうじゃ、平助にもわかると見える」
「殿を箱根足柄あしがら の山向うに追っておけば、奥州の伊達や上杉の押さえにもなる。自分の安全けん をひろげることが、そのまま巨大な東の堤防にもなる道理じゃ」
「平助」
「はい」
「そこまでおぬしの眼が光っておれば話よい。が、よいかの、おぬしの解釈が違うておるときのではないが、しかし、それだけの見方ではまだ足りぬぞ。その考えを裏返すと、もう一つの答えが出て来る。裏返してみたことがあるか」
「裏返してみる・・・・?」
「そうじゃ、おぬしはいま、伊達や上杉の押えになるといったろう」
「申しました」
「それを裏返せば、伊達や上杉をして、絶えず殿を牽制けんせい させ、余力なからしめることも出来るとおいことじゃ」
「ウーム」
彦左衛門は低く唸った。若い彦左は、まだそこまで考えてみたことはなかったらしい。
「なるほど・・・・たしかに、そうでござりまするな」
「おわかりかの。そればかりではないぞ。そうなっても、もし殿に隙もあらば、伊達、上杉の尻押しをしてやって、殿を滅ぼすことも可能なのじゃ」
「開戦の口実はどのようにもつく。こんどの小田原がよい例じゃ。小田原の真意は、家康を上京させる折には、大政所を質としてさし下した。それゆえ小田原の北条氏父子にも上洛を迫るならば、大政所にふさわしい質をよこせ、さすれば上洛してやろうという、面子めんつ にこだわったところにある・・・・と、、言って、まこと相手が強ければ、平気で質も出す秀吉じゃ。問題は小田原の弱さにあること、この大切なことを小田原では重臣どもも気がつかぬ」
「たしかにそうじゃ!」
「問題はそこぬある。よいかの、小田原を征伐して殿に国替えを迫って来る。殿は内心それをお受けなさる肚と見て取った・・・・」
「たしかに!」
「しかし家中には並々ならぬ不平がある。この不平の急先鋒はこの作左・・・・と、これは表面の見方じゃ。作左が案ずるのは、北条の残党が根を張る関東に転封てんぽう されて、はたして家中の不平をまとめ、すぐさま、秀吉にも、伊達、上杉にもあなどりを受けぬほどの結束が出来るかどうかじゃ!弱ければ秀吉自身がつけ入るぞ。秀吉につけ入られたら、伊達も上杉もその日から敵にまわること火を見るより明らかじゃ。内に不平を抱かせられたまま関東に移らせられて、移った日から四面しめん 楚歌そか ・・・・そうなったら北条の残党どももみな内側から蜂起ほうき する・・・・どうじゃ。この爺の案ずる意味がおわかりか」
言われて彦左衛門は、あわただしくまたたいた。
(なるほど、この年寄りは先を見ている!)
その感嘆よりも、かれにはまだそうした場合の想像や思案はしたこともなかった、その狼狽が大きかった。
「ご老人、なるほどこれは一大事じゃ!」

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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