〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/02 (木) 小 田 原 進 撃 (八)

大久保曲輪は、兄の忠世とその子の忠隣ただちか の屋敷であった。その左隅に小門を富士山に向けて彦左衛門の長屋が建っている。
入り口には霜に素枯すが れた菊が、二、三本残っていた。
本多作左衛門は狭い玄関へかかると、出迎えた若党や女たちには言葉もかけずに、彦左衛門のあとからむっつろと座敷に通った。
八畳の座敷にはそれでも四畳の次の間がつき、東が広縁になっている。
「ほう、平助、おぬしは案外贅沢ぜいたく 好きと見える。掛け軸も掛けてあるし、刀架もわしのより立派じゃ。定めて馬も肥えているであろう」
「ハハハ・・・・」
彦左衛門はおかしそうに笑って作左を上座に坐らせると、
「お気に入らば、ここでご隠居なさるがよい。しかし殿は困られましょうな」
「わしに、駿府へ来られてはか」
「さぞうるさいことであろうゆえ」
「平助、おぬし、わしが何のために隠居を申し出たか推量できるか」
「できないこともないが申しますまい。うっかり言うと殿のように叱られる」
「殿は、わしが秀吉をはばかって隠居すると思うておる。まことに心外じゃ!」
「ご老人、わざわざご老人がお泊まりくださると言われるのじゃ。今夜は、ゆるりとご老人の教訓をうけたまわることにいたそう」
彦左衛門はまず先手を打っておいて、それから若党を呼んで酒の用意を命じていった。
「二人っきりでお話をうけたまわるのは、一年半ぶりでござる。あの折のご老人は、殿の前で、思うことを言う男になれ。言い過ぎるほど物の言える男になれといわれましたなあ」
「そのとおりじゃ。今日の話とてそれ以外のことではない」
「つまり、この彦左衛門に本多作左が後継あとつ ぎになれと、こう言われるので」
「平助どの」
「これはおどろいた。ご老人にどの・・ などつけられると、ゾーッといたします」
「そうではない。こんどの小田原征伐のう」
「いよいよ決まりましたようで」
「あれはいったい、どうした戦と思うぞおぬしは?」
「どうした戦・・・・というて、北条氏政、氏直親子が、百年間の繁栄にあぐらをかき、尊大になりすた罰で倒れる戦と心得ますが・・・・」
「そうではい。それは他人の目じゃ。徳川家の家中の眼で見たときに、どうした戦かと訊いているのだ」
「徳川家の家中の目・・・・」
「いつもその目で見ないとお家は立たぬ。これはの、徳川家から関白の行動を見てゆけば、北条征伐の戦ではなくて、徳川家を国替えさせようための戦じゃ」
「フーム、なるほど」
「よいかの、秀吉は、北条氏など眼中にない。ここでどうして家康を相模さがみ 以東に遠ざけ駿府までをわが腹心で固めるか。いわばそのためにやって来る富士見の遊山じゃ」
「富士見の遊山・・・・」
「そうじゃ。富士山を、わが山として眺めたい。そうしたときに安堵ができる。秀吉とはそうした男、それに対して徳川家の家中に備えがあるかどうじゃ平助」
そう言うと作左は、例の蟇蛙ひきがえる のように唇をぐっとへの字に結んで、彦左衛門を見つめていった。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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