本多作左衛門は廊下へ出たところで、大久保彦左衛門に出会った。 「ご老体、だいぶ大きな声をお出しなされましたな」 「平助か。聞いていたのか」 「あの大きな声、いやでも耳に・・・・」 彦左衛門はそう言うと声をおとして、 「しかし、ほかの者に聞かせたくないゆえ、近づく者を見張っていました。仮にも大納言じゃ。あまり頭ごなしにやられるところは若い者には見せとうない」 「平助」 「なんじゃご老体」 「わしはこなたの長屋に一泊しよう」 「それはまた、どうした風の吹きまわしで」 「宿直
誰かに変わらせて、わしを連れてゆけ。寝酒はほんの少々でよい」 「恐れ入りましたなあ。ではしばらく・・・・」 作左を廊下へ待たせたままで、宿直の間に駆け込み、すぐまたニヤニヤしながら戻って来た。 「寝酒の用意はありますが、頭ごなしの肴
はあまりありがたくないなあ」 「そうではない。わしはこなたに頼みおきたいことがあるのじゃ」 「ほう、では、ご案内を」 「どうじゃ。近ごろ駿府の士風は、ゆるんでおらぬか」 「この大久保彦左がある限りは」 「大きく出たのう」 「何の、ご老体の足もとにも及びませぬ」 「平助」 「はい」 「こなた、禄もいらぬ。名誉もいらぬ。生命もいらぬという人間に出会うたことがあるか」 「これはまた、面白い問い方じゃ。ありまするなあ。たった一人」 「追従
はよせ。その一人というのはわしのことであろう」 「少し違いましたなあ」 「なに違うた・・・・では、誰じゃそれは?」 「大久保彦左衛門という男で」 「ワッハッハッハ・・・・おぬしは、わしにないものを持っている」 「それは、裕福でござりまするからな」 「そうではない。余計なことをして損をするたち
と、おもしろい減らず口をたたくことじゃ」 「ご老人を見習うておりますので」 「わしは口数は少ない方だ。それに話せば人を怒らせる」 「それがご老体の身上
じゃ。しかし、ご老体は岡崎を隠居したいお心のようにうけたまわりましたが、隠居しっぱなしではござるまい」 「なに、その事まで聞いていたのか」 二人は肩を並べて大玄関を出ると、前庭を右へ折れて大久保曲輪
の方へ歩いた。 作左は大久保兄弟の中では、なぜかこの、今は彦左衛門と言っている平助が好きであった。 作左によく似た硬骨漢で、しかも作左以上の毒舌家でありながら、どこかに豊な人間味とおかしみをたたえている。 文才もなかなかある方だったし槍の腕も並々ならぬものがあった。 作左はその平助に、何を話そうとするのか、珍しく明るい表情になって平助の住居の門をくぐった。
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