〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/02 (木) 小 田 原 進 撃 (七)

本多作左衛門は廊下へ出たところで、大久保彦左衛門に出会った。
「ご老体、だいぶ大きな声をお出しなされましたな」
「平助か。聞いていたのか」
「あの大きな声、いやでも耳に・・・・」
彦左衛門はそう言うと声をおとして、
「しかし、ほかの者に聞かせたくないゆえ、近づく者を見張っていました。仮にも大納言じゃ。あまり頭ごなしにやられるところは若い者には見せとうない」
「平助」
「なんじゃご老体」
「わしはこなたの長屋に一泊しよう」
「それはまた、どうした風の吹きまわしで」
宿直とのい 誰かに変わらせて、わしを連れてゆけ。寝酒はほんの少々でよい」
「恐れ入りましたなあ。ではしばらく・・・・」
作左を廊下へ待たせたままで、宿直の間に駆け込み、すぐまたニヤニヤしながら戻って来た。
「寝酒の用意はありますが、頭ごなしのさかな はあまりありがたくないなあ」
「そうではない。わしはこなたに頼みおきたいことがあるのじゃ」
「ほう、では、ご案内を」
「どうじゃ。近ごろ駿府の士風は、ゆるんでおらぬか」
「この大久保彦左がある限りは」
「大きく出たのう」
「何の、ご老体の足もとにも及びませぬ」
「平助」
「はい」
「こなた、禄もいらぬ。名誉もいらぬ。生命もいらぬという人間に出会うたことがあるか」
「これはまた、面白い問い方じゃ。ありまするなあ。たった一人」
追従ついしょう はよせ。その一人というのはわしのことであろう」
「少し違いましたなあ」
「なに違うた・・・・では、誰じゃそれは?」
「大久保彦左衛門という男で」
「ワッハッハッハ・・・・おぬしは、わしにないものを持っている」
「それは、裕福でござりまするからな」
「そうではない。余計なことをして損をするたち・・ と、おもしろい減らず口をたたくことじゃ」
「ご老人を見習うておりますので」
「わしは口数は少ない方だ。それに話せば人を怒らせる」
「それがご老体の身上しんじょう じゃ。しかし、ご老体は岡崎を隠居したいお心のようにうけたまわりましたが、隠居しっぱなしではござるまい」
「なに、その事まで聞いていたのか」
二人は肩を並べて大玄関を出ると、前庭を右へ折れて大久保曲輪くるわ の方へ歩いた。
作左は大久保兄弟の中では、なぜかこの、今は彦左衛門と言っている平助が好きであった。
作左によく似た硬骨漢で、しかも作左以上の毒舌家でありながら、どこかに豊な人間味とおかしみをたたえている。
文才もなかなかある方だったし槍の腕も並々ならぬものがあった。
作左はその平助に、何を話そうとするのか、珍しく明るい表情になって平助の住居の門をくぐった。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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