〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/02 (木) 小 田 原 進 撃 (六)

作左衛門はまた言葉を続けた。
「殿はこの作左に何と言われた。家康が秀吉と手を握るのは、秀吉に屈したのではのうて、秀吉よりも一段と上に立ち、秀吉で治まる天下かどうかを監視してゆくためだ。それがまこと神仏のお心にかのうたやり方・・・・と言ったであろう。それならばそれで、どこまでも秀吉を怖れさせる監視者の姿勢というものがあるはずじゃ」
「それはあるとも、それをわしが崩したとでもそちは言うのか」
家康が、眼をそむけたまま応えてゆくと、
「誰が殿の姿勢が崩れたと言うた!」
作左衛門は肩をふるわしてわめき返した。
「殿は自分一人で天下の監視ができると思うか。殿だけがいい気で姿勢を整えたつもりでいたとて、背後の家中のそれが崩れていったら、殿など床の間の置き物ほどの役にも立たぬ。監視するつもりの秀吉にぺろりと一度に呑まれてそもうわ」
家康は、とつぜん低く笑っていった。
「わかった爺、そちの案じていることがわかった」
「まだわかるまい。半わかりは怪我けが のもとじゃ。年寄りはくどいなどと思わっしゃるな。今日の評議のすすめ方・・・・あれはいったい何という思いあがりじゃ。自分だけが神仏のもこころをあずかり知ったような小賢こざか しさで、みなの意見を抑えてゆく。それも秀吉の偉さを認めてやることゆえ、みなの異議は聞かぬぞと言う態度じゃ。それでみんんが秀吉を怖れなんだら、それこそふしぎ・・・・いつの間にか、秀吉は殿よりはるか上の人と思い込む。殿! 家中の衆は、殿と同じ悟りの列にはおらぬのじゃ。その人々には、その人々にわかる言葉でおはかりなされ。なぜ真っ正直に、秀吉になめられまいぞ。ここではやむなく味方をしてゆくが、いつかは倒さねばならぬ相手・・・・そうハッキリと説いた上で、さて、それにはどうすべきかと訊ねるものじゃ。倒すつもりで張り切っていて、それでようやく倒される隙もなくせるもの・・・・一人で偉がって、みんなの心を突き放す・・・・大将というものは、もっと物を言わぬものじゃ」
「わかった。わかったぞ爺・・・・そちの言葉で一つ悟った。たしかにわしは言いすぎた。そう申したら納得できるか」
「できぬ」
作左はもう一度、念を押すように力を入れて反撥して
「したが、これ以上言うは舌の無駄使いじゃ。隠居のことを考えおき下さるよう、それを頼んで作左は退る」
「威張った爺じゃの。あき れたものじゃ」
「殿に呆れて貰う気はない。秀吉を呆れさせてこそ、相手のうかつな手出しを封じてやれるのじゃ。そうじゃ、早く退ってもう少し数正の夢の続きでも見ることとしよう」
言い捨てると作左衛門は、むっつりと立ち上がり、挨拶もせずに次の間へ出て行った。
家康は、その後ろ姿を見送って、それかすぐに机の前に立っていった。
小田原攻めのおりには、やはり作左を岡崎から駿府に呼び寄せておかねばならぬ。
作左の言うとおり、家中に秀吉恐怖の風が吹き込んで来たのでは、家康の存在は無意味であった。
(なるほど爺は爺だけの・・・・)
家康は岡崎の城代を、誰に変えようかと首を傾げた。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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