「話は済んだゆえ、退ってよいと申したのじゃ」 家康は、作左衛門め、まだ、何か言いたいことがあって残ったな・・・・そう察しながら、同じ言葉を繰り返した。 「はて、殿の話がお済みなされたら、わしは、何を申し上げようと思うていたのだったかな?」 「忘れるほどのことなら、今日でなくともよかろう。退って、しばらく休んでゆけ」 「そうそう、思い出しました。いま、夢を見ていたのじゃ」 「うーむ。こなたの見る夢ならば、また家康に喰ってかかる種になる夢じゃ」 「ところがさにあらず、夢の中で石川数正めが出て参って・・・・」 「なに数正が!」 「あやつ、わしに隠居しろと詰め寄りまいた。いつまでも岡崎の城など預かっている器量はうぬにはない。もはやうぬの時代は去ったゆえ、若い人に道を開いて隠居せよと」 家康はハッとした。 (こ奴、まだ老いてはおらぬ。わしの肚を読みおった・・・・) 「ほう、なんでまた数正がそのような・・・・そち、数正と約束したことでもあるのか」 「フン、あやつなどと何の約束・・・・あやつは殿を、だんだん秀吉恐怖の病にかからせた張本人じゃ」 「では、何で夢など見おったのじゃ。夢を見るからは、そちの心に、何か気になるわけがありのであろう」 「殿!」 「申せ、二人だけじゃ」 「わしを隠居させて下され。数正ずれにまで、夢で詰め寄られるようになっては、ここらが退
きどきじゃ」 「フーム」 家康は急に作左が哀れになった。 「こなた、大政所岡崎に滞在のおり、住居の周囲に柴を積んで秀吉を激怒させた・・・・あの時のことを考えているのじゃな?」 作左はぷいとわきを向いて、今度は冷笑しなかった。 「あのことなら案ずるな、二人だけゆえ申すが、家康は心の中でこなたに手を合わせておる。あれで秀吉は、三河武士の結束の常識では割り切れぬ固さを悟って、わが家臣の誘惑を思いとどまったのじゃ」 家康がそこまで説明すると、こんど作左は顔をゆがめて嘲笑
った。 「何のことじゃいそれは! それが殿のお言葉かい」 「すると、あのことを気にして隠居を申し出たのではないと申すか」 「殿! 本多作左衛門は男一匹じゃ」 「ほう、急に大きく若返ったの」 「秀吉の思惑など考えて、柴を積んだり隠居したりする腰抜けであってたまるものか」 「なるほど、そうかも知れぬ」 「わしは、ただ柴を積むべき時と、おのれが信じたときに積み、隠居すべき時と、おのれの心が命じたおりに隠居する。禄
を貰うてありがたいゆえ忠義のお返しを申し上げたり、主君の言うことゆえ無理でも従うたりする腰抜ではない。見損
のうて貰いますまい」 言い放って、上半身をぐっと乗り出し、下から執拗に眼を据えてじいーっと家康を睨
めあげた。あたりには妖気の漂
うような面魂 があった。 |