「秀忠さま人質の儀は、わが君ご自身でお断
わりなされたとうけたまわりましたが」 まっ先に口を開いたのは榊原康政だった。 「それであえて差し出せとは使者も言わなんだ。言わねば出す必要はござりますまいかと」 家康は、渋い顔で首を振った。 窓の障子に葉を落とした梅の古木の影が描いたように映っている八ツすぎだった。 「康政、そうはゆかぬぞ」 「しかし、向こうが強いてと言わぬものを」 「わしが、わしと入れ違いに送ろうと言ったのは、差し出さぬためではない。われらにはわれらの根性と思案があると、相手にわからせようためなのじゃ」 「しかし・・・・」 「まあ聞け、開戦と決まり、味方と決まれば、相手にわざわざ警戒させる必要はない。どこまでも、快
く味方する・・・・そうした方が苦しい立場に立たされずに済んでゆくのじゃ」 家康はそう言うと、意志のように黙って畳を睨んでいる作左衛門の方をチラリと見やって、 「のう作左、わしは上洛してもすぐに戻って来るゆえ、今から秀忠出発の準備をさせておかねばならぬ。そうじゃ、ついて行くのは、井伊直政、酒井忠世、内藤正成、青山藤七朗、その方たち四人で参れ、それがよかろう作左」 しかし、作左衛門は聞こえぬもののように身動きもしなかった。 家康は苦笑して大久保忠隣に視線を移した。 「そうして他意なく送り届けたうえで、関白がそれには及ばぬ・・・・とこうなればわが家の面目も立ち、あとに感情のしこり
も残らぬ。それゆえ、しかと用意しておくように」 「はッ」 内藤正成と、酒井忠世は答えたが、直政も藤七郎も答えなかった。 「よいか、今度の戦で、最も警戒せねばならぬことは、関白に、あらぬ疑念を起こさせぬことじゃ。戦は長びく。その間に、地理にくわしいゆえ、力攻めにしろなどと命じられぬよう、その点に充分心をくばらねばならぬ」 家康がそこまで言うと、不意に作左衛門の
「フフン」 という嘲笑
だった。 もはやこの嘲笑は癖になって、時と場所を選ばぬものになったらしい。 「異存があるのか爺
・・・・」 「異存など、あっても殿はお聞き入れなさるまい」 「なんじゃと!」 「これは評定
などと言うものではない。殿がひとりで命令を下すばかり・・・・評定などと言うのは大まんちゃくじゃ」 「意見があるなら申せと言っているのだぞ」 「意見など大ありじゃ。殿の仰せを黙って聞いていると、秀吉めが、どのような無理を言ってもごもっともさまで・・・・そう言って機嫌を損じるな。秀吉の前に這いつくばって奉公せよ。それが忠義じゃと言っているように聞こえる。そうではないと仰せられるか殿・・・・」 「それが、爺の意見か」 「意見などではない。殿の言葉の足りぬところを補足してみたまでじゃ。みなの衆、よく聞かっしゃい。うちの殿はいつからか秀吉の毒気に当てられての、腰が抜けてしもうたわ。よいかの、それゆえ、何事も秀吉の命令第一、ハイ、ハイとご奉公さっしゃれや・・・・殿!
これでよいのだろう、あとは無駄口というものじゃ」 家康は思わず大きく嘆息した。 |