〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/02/01 (水) 小 田 原 進 撃 (一)

家康は大谷吉継を送り出すと、すぐに上洛の用意にかかった。
すでに秀吉の心は決まってしまった。相手が戦力を誇示しようとして、わざわざ防備を見せているほどゆえ、北条方の戦略、作戦ともに、家康にも秀吉にも知れ尽くしている。
伊豆では韮山にらやま 城の北条氏規を総大将にして、獅子しし はま 城に大石おおいし 直久なおひさ安良里あらり 城に梶原かじわら 景宗かげむね三浦みうら 茂信しげのぶ をおき、田子たご 城には山本やまもと 常任つねとう下田しもだ 城には清水しみず 康英やすひで のほかに江戸えど 摂津守せっつのかみ 朝忠ともただ と、清水同心の高橋丹波守が入る模様であった。
箱根と三島の間には新しく山中なかやま 城を築いてこれに老臣松田尾張守憲秀のおい康長やすなが を城主とし、その下に玉縄たまなわ 城主の北条氏勝うじかつ 、旗下の間宮まみや 康俊やすとし朝倉あさくら 景澄かげずみ宇津木うつき 兵庫助ひょうごのすけ などを配属させて、ここ正面からの侵攻に備え、足柄あしがら 城には氏政の弟佐野さの 氏忠うじただ新荘しんじょう 城には江戸城代の遠山とおやま 景政かげまさ を入れて北西に備えている。
すぐ西の宮城野みやぎの 、底倉などの固めも厳しく、後方には八王子はちおうじ 城があり、武蔵のおし 城、岩槻いわき 城と夜を日に継いで城普請に余念がなかった。
したがってこの戦も性急に攻め立てたら、九州征伐以上の犠牲を伴うことになろう。
戦意もきわめて旺盛おうせい だった。
総動員された百姓町人の若者たちまでが、
「 ── これで勝つと立派な武士になれるぞ」
そんなことをささやき合って竹槍をしごいている。
しかし、そうした事では家康はさして心を労さなかった。
秀吉の位攻めは知りすぎるほどに知っている。必ず彼は北条勢を圧倒するに足るだけの大軍を率いて来て、持久戦態勢を取るに違いなかった。
ただ問題は、小田原攻めの先鋒を命じられて、持久戦の責めを徳川勢に転嫁てんか されることを恐れた。
「── 徳川勢は何をしているのだ、小田原一つ落とせぬのか」
そんな風評が長滞陣のうちに立ち出すと、それはそのまま日本中の諸大名の中に、家康の 「力 ──」 に疑念を抱かせることになろう。
秀吉がもし家康の国替えを、否応なしに命じてゆこうとしてあれば、この宣伝は手痛い征矢そや になって戻って来る。
「── さしたる手柄も立てずに、関八州をあてがわれて不服を申しているそうな」
そんな噂は、たちまち世間を風靡ふうび して二人の間の力の 「均衡きんこう ──」 を破ってゆこう。
家康はひと通り北条勢の布陣の情勢を集めてゆくと、鷹狩をよそおって浜松の城に出向き、ここで重臣たちと評議を開いた。
秀吉の心が決しているように、家康の心ももう決まっている。それだけに命を下すだけでよいのだが、しかし、それでは家臣の不満は拭いきれまい。そこでどこまでも相談したという形で、自分の意志を浸透しんとう させておこうというのであった。
呼び集められたのは井伊直政、酒井さかい 忠世ただよ 、榊原康政、本多正信、本多作左衛門、大久保忠隣ただちか 、内藤正成まさなり青山あおやま 藤七朗とうしちろう 、それに甲州から鳥居とりい 元忠もとただ も加わった。
「関白よりの催促で、十二月初旬に上洛せねばならなくなった。こんどは中国、九州まで陣触れがあったと聞く。諸大名はみな妻子を質に出しているようじゃが、わが家も秀忠を京へ送らねば済むまい。みなの意見を申してみよ」
家康はどこまでも無表情をよそおって、低い声で話し出した。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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