〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/01/31 (火) 立 正 夜 話 (六)

みんなの前に茶菓さか が運ばれた。
小栗大六が茶をすすりながら、京から堺の大商人の中では、茶屋四郎次郎もまた、最も質素のコを知る一人だと話している。
茶屋四郎次郎は頭を掻いたようであった。
「酒ぐらいは出せるのでござりまするが、お館さまに叱られてもと存じまして」
「いやいや、そう言う意味で申したのではない。町にあっても、お館さまの心を心として生きている・・・・その話をしようとしたのじゃ」
「ハハ・・・・私はまた、この粗茶に饅頭まんじゅう 一つでは、あまりにももてなし・・・・ が悪すぎる・・・・そういう意味かとひがんで取っておりました」
茶屋と大六のやりとりを、家康はもう心に止めていなかった。
(何事も、その根本に立正の精神がなければ・・・・)
若い光悦のもらしたその一語が、家康の心にきびしく網を張りだしている。
(たしかにそうじゃ)
と、家康はわが心でうなずいた。
根本にその心がなかったら、あらゆる動きは策略となり謀議となる。他人はそれであざむき得ても、自分を偽り得ないところに人間の宿命がありそうだった。
(ほんとうの強さは、立正のあとに生まれる・・・・)
「お館さま」
と、改めて光悦が自分に向き直っている。
家康はハッとして光悦に眼と心を向けていった。
「今までは関白さま、これからはお館さまの時代が参るのではござりますまいか」
「なに・・・・これから、わしの時代?」
「はい関白さまが、よくお勝ちなされた。そのあとをよく治めるお人がなければ、関白殿下の偉業も、亡くなられた信長公のご苦心も、民の暮らしの中へは生かされて参りませぬ」
「フーム」
「これから関白のお側にあって、最後の仕上げにご努力下さらば、神仏がおよろこびかと存じまする」
「光悦!」
「は・・・・はい」
「こなたの申すことから、わしは一つの暗示を得たぞ」
「どのような暗示でござりましょう」
「こなたが、何としても戦になると見てとった、小田原の北条と関白の間のことのう」
「はい」
「わしの力で何とか円満に提携ていけい するよう骨を折ってみることじゃ。このうえ戦わせずに済めばそれに越したことはない。これは一つの立正・・・・と気づいたのじゃ」
光悦はちょっと小首を傾げたまま、すぐには答えようとしなかった。
おそらく、 「それは無駄・・・・」 と言いたかったのかも知れない。
「戦えば必ず北条が敗れてゆく。そのことだけを悟らせたら、せずに済む戦・・・・それで北条家も立ち、莫大ばくだい な戦費も助かる道理じゃ」
「お館さま、私が申し上げたいのは小田原のことではござりませぬ。そのあとに、起こるやも知れぬ、もっともっと大きな戦のことでござりまする。私は武将と町人の双方と交際しておりますので、その怖れのあることがわかるような気がいたしまする」
光悦は、確信に満ちた様子でそう言った。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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