おそらくいま日本では、秀吉の前で寧々ほど自由に口の利ける者は一人もあるまい。 寧々はそれを喜びたかった。感謝したかった。にもかかわらず、なぜか淋しさが胸いっぱいにあふれて来て、目頭のかすんでゆくのをどう押えるすべもなかった。 「どうしたのじゃ?
急に気分でも悪くなったのか」 押したずねる秀吉の前へ、寧々はたまりかねて身を伏せた。 「お許しなされて下さりませ」 「なに、許せと!? 何を許すのじゃ、水臭いぞ寧々」 「わらわは、わがままな女子でござりまする」 「そのようなことはない。それは秀吉が許してあることじゃ。女子だとて、思うことを口にも出さず、くよくよと、牛馬のように従うてあるは意味ないこと。どこまでもある才能は伸ばすがよい・・・・とは、信長公や濃
御前の生前からわしの言い通して来たこと、こなたはそれに従うたまでなのじゃ」 「お許し下されませ」 寧々はもう一度言ってから秀吉を仰ぎ直した。 「わがままなわらわをお許しなされて、わらわに、もう一つだけ・・・・」 「申すことがあると言うのか」 「はい、お願いの儀がござりまする」 「申してみよ」 秀吉は再びギヨッと警戒する顔になった。 「こなたが申すことゆえ、無意味なことではよも
あるまい。充分思案を重ねたうえのことであろう。聞こう、申してみよ」 「申し上げまする。わらわに大坂在住の儀、お許したまわりとうござりまする」 「寧々!」 「は・・・・はい」 「ほかのこととは違うぞ。わざわざこの新邸へ移って来て、今日で幾日になると思うぞ。何が気に入らぬで大坂へ戻るというのじゃ」 「気に入らぬなど・・・・もったいない。そのような儀ではござりませぬ」 「では、何ゆえじゃ。聞こう」 「殿下のお側のご用はもうわらわでのうても勤まりまする。大政所さまも、京へお越しあれば、実の姫の三好どの奥方もわられますることゆえ」 「そち、三好の姉とでも争うたのか」 「いいえ、そのようなことは・・・・」 「まさか、姑
と争うこなたでなし、では、なぜそのような無理を言うのじゃ」 「恐れながら、殿下のご本城は大坂にござりまする」 「それがどうしたと申すのじゃ」 「寧々は北の政所、ご本城で留守を守る緊張しきった昔の心を持ち続けて生きとうござりまする」 「なに、留守居の心で生きたいと・・・・」 「はい、若いおりに、殿下がご出陣なされますると、寧々の五体はハリ裂けそうでござりました。良人の身に間違いないか、留守の心にゆるみはないかと・・・・寧々はこれからも、その心をしっかりと持ち続けて生きとうござりまする。それにはやはり本城におるがよい。ここはいわば殿下ご出陣中の砦の一つ・・・・砦のことに気を取られて、ご本城のことがおろそかになってはなりませぬ」 言いながら寧々の眸
はまたしても、しっとりと露にぬれてゆくのであった。 |