〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/01/14 (土) 人 生 の と げ (八)

寧々は、またしても笑うよりほかになかった。
悪戯いたずら を許された子供そのままの秀吉が、腹立たしくもあるがいじらしくもあった。
「身分相応と言えば、どのような扱いがよいかのう」
「それは殿下がお考えなされませ」
「うむ、阿茶々はあれでなかなか勝気な、それだけかしこ さも持った女子じゃ。おそらくこなたに次いでわしの心にかなうであろう」
「ホホ・・・・」
「また笑うのか。笑うな、わしは、いつも正直にものを言うておるのじゃ」
「ハハ・・・・あまり正直ゆえおかしくなりまする」
「いやいや、人間に賢すぎるということはない。男にせよ女にせよ、賢いに増したことはない。がこなたに比ぶればやはり阿茶々は劣っておる。それはやむないことじゃ。こなたがすぐ れすぎておる」
寧々が、ひやりと鋭く、
(わらわは大坂へ帰ろう)
そう思い定めたのは、この無邪気な追従ついしょう を良人の口から聞かされた時であった。
やはり寧々には大坂城が秀吉の人生の頂上の城であり、そこにあってこそ自分は秀吉の正妻であり得るのだと反省された。
「ではとにかく、おの大奥のつぼね をひとつ阿茶々のものと決めてやっての、有楽に大坂から呼び変えさせるよう手配をしよう。あれは決してこなたに楯突くようなことをする女子ではない」
秀吉は寧々の気持の変わらないうちに、例の強引ごういん さで一気に押し切ろうとあせっている。
「よいかの、こなたの事もの、わしはよく考えておるのじゃ。まずこの聚楽第に主上の行幸ぎょうこう を仰ぐこと。そして次にはその礼として、こなたの名で禁裏きんり において御神楽おかぐら を奉納すること。そのあとで禁裏からこなたに従一位の宣下せんげ があるはずじゃ。そのときの名前のことじゃがのう寧々」
寧々はいぜん微笑をうかべたままで、よく動く秀吉の唇辺を見つめている。
「寧々というのは愛くるしい女童めわらべ という意味の俗称で、従一位北の政所の名としては少々おかしい。そこで公家風くげふう吉子よしこ と名乗ってはどうであろうな。従一位豊臣吉子・・・・むろん吉子の吉は秀吉の吉じゃ・・・・」
「・・・・・・」
「こなたに異議がなければ、蔵人頭くらんどがしら左近衛中将さこんえのちゅうじょうまで、その旨内奏させておこうと思うがの」
「・・・・・・」
「とにかくこれからが、われら夫婦にとってもわが世の春じゃ。振り返ってみれば長くも辛い人生であったがの」
「・・・・・・」
「おや、寧々はどうしたのじゃ? 眼にいっぱい涙をためておるではないか。あ、落ちた一粒・・・・これは、何としたのじゃ寧々!?」
寧々はたまらなくなって、おもて を伏せた。
これほど自分のために気を使う良人が哀れでならなかった。関白太政大臣豊臣秀吉・・・・その不世出の偉人とたたえられたいる良人に、これほど気を使わせる自分はいったい、何という幸福な女子なのであろうか・・・・?

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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