〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part ]-T』 〜 〜

2012/01/13 (金) 人 生 の と げ (七)

秀吉はムッとして押し黙った。
これだけ彼の方で気を使っている。そうわかったら話題を変える遠慮がほしい。いや、その遠慮は今までの寧々にはあった・・・・
そこで言外にそれを期待して、さあらぬ話を続けて来たのに、寧々はいっこうに話題も変えなければ遠慮もしなかった。
まだ秀吉の思案もはっきり決まっていない茶々姫の問題に、取り乱したと言いたいほどの露骨さで触れて来た。
秀吉は、こんど新しく作らせたキセルを取って一口吹いてみたから、カン高くタバコ盆のふち を叩いてほう り出した。
寧々の方はケロリとして冷静に秀吉を眺めている。
「寧々」
と、秀吉は、押し殺した声で呼びかけた。
「こなた人が変わったの」
「ホホ・・・」
「何がおかしいのだ。以前には、どのような腹に据えかねることがあっても、どこかに詫びやすいいたわ りと隙があった。が、近ごろはそれがない。冷たい理詰めだけが情愛ではあるまい」
「ホホ・・・・」
寧々は笑い続けた。
「そうまで仰せならば、もううかがうことはやめまする。したが、変わったのは寧々の方ではなくて、太政大臣だじょうだいじん とかにおなりなされた殿下の方・・・・とは思われませぬか」
「わしが変わる・・・・そのような事があるものかッ」
「ではうかがうのはやめまする。それが労りとあれば、申し上げることはござりませぬ」
「寧々、わしは、どのようなことがあっても北の政所として、こなたへの情と礼とは欠かぬつもりじゃ。こなたもそれはわかっていようが」
噛んで吐き出すように言われて、こんどは寧々が押し黙った。
淋しかった。
(かっての側室のときとは違う・・・・)
今までは少してれた・・・ 駄々っ子の表情で、しかし大したこだわりも見せずに寧々に話した。それゆえ寧々も笑って同意して来たのだが、こんどはまるで違う手応てごた えだった。
(あるいは心で、有楽の言った妊娠云々に期待をつないでいるゆえではなかろうか・・・・?)
そうあっても無理はないと寧々は思う。世継よつ ぎのない淋しさは寧々の方が秀吉以上であった。
しかも有楽はそれを 「わしの才覚 ── 」 と告白している。嘘なのだ。嘘とわかったおりに、秀吉の落胆と怒りを見るのはたまらなかった。
「阿茶々のことは・・・・」
やっぱり寧々は、このまま黙って傍観者になれなかった。年齢を えて、いつからか母のような労りを秀吉におぼえている。
「阿茶々のことは?」
秀吉は聞き返した。彼の方でも寧々が折れて出てくれるのを、わがままな童子のように甘えて待っている。そんな眼だ。
「世間に笑われないよう、身分にふさわしいお扱いを願わしゅう存じまする」
寧々は思い切ってそう言った。そう言う事が関白太政大臣の正夫人である自分の雅量がりょう であり、理性でなければならないと、どこかで悲しく命じているものがある。
「身分に応じた扱いをの」
秀吉は、声をはずませて身をのり出した。

徳川家康 (十三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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