寧々
は、自分の居間だけ自分の手で片づけようとして、さっきからしきりに手筥
の整理にかかっていた。 中にあるものは、九州遠征中の秀吉から寄せられた手紙が多く、それを再び読み返すと、今さらのように、この大坂城との別れが惜しまれる気持であった。 人生の生涯にも山とおなじように頂点があるはずに想える。もしそうだとすれば寧々の人生の頂点は、この大坂城の豪華をきわめた大奥にあったのではなかろうか・・・・? 京の内野
へ出来上がった聚楽第は、ここにまさるとも劣らぬ豪華さと、五奉行はじめ秀吉からもたびたび聞かされているのだが、それはもはや下り坂への降り口のような気がする。 (それでよいのじゃ。花の盛りばかりが続いてよいものではない・・・・) 入り口から次の間へ、かしこまって坐っている侍女たちを忘れたように、寧々はまた一通の巻紙を開いていった。 いまは残暑の季節ではない。九月に入って庭の七草も盛りを過ぎている。それなのに南面した縁先にあたたかい陽
だまりができて、室内は汗ばむほどの暖かさであった。 寧々は巻紙を開いてふっとほほ笑んだ。仮名
に当て字を交えた、しかしのびのびとした秀吉自身の手紙から、若いころの藤吉郎の体臭を嗅ぎ取ったからであった。 この手紙は五月の二十八日に肥後
の佐敷 で書き、二十九日に、さらに八代
に着いて書き継いだ手紙であった。 それによると ── 島津義久の処分が終わり、義久はひとり娘の若菊を人質に出すことになったこと。薩摩
、大隈 の二国はそのまま義久に与えるつもりであること。 六月五日には博多
へ戻るつもりだが、そこまで帰ればもはや大坂への道のなかばを戻ったことになる・・・・などと、たどたどしい文章で書きつけられている。 そして、博多では壱岐
、対馬 の太守である宗
義智 に人質を出させ、高麗
の国までも日本の内裏
へ随従するよう早船を仕立ててやる。もし従わなければ来年は成敗
を申し付ける。自分の一生の間には、唐国までも必ず手に入れて領分にしようと思うから、一段と骨の折れることである・・・・そうしたいかにも秀吉らしい大
風呂 敷
をひろげたあとで、こんどは、なんとも言いようのない稚気
にあふれた嬉しがらせで結んであった。 「── 今度の戦でだんだん年を取り、白髪が多く出て来たが、抜くことをしなかった。これをそもじにお目にかけるのはいささか恥ずかしいような気持もするが、他人と違い、そもじに対してのみは苦しからずと思えでも、さて、迷惑なことに候
・・・・」 そこまで読んで、寧々は苦笑と一緒に手紙を巻いた。 白髪がふえたなどと白々しいことを言って油断させ、自分には内証で浅井の一の姫にまでとうとう手を出してしまっている。 阿
茶々 と殿下の話は、いまでは城内の蔭口
の焦点だった。寧々が来かかるとぴたりと止める大奥の話は、おおよそそれと受け取って間違いあるまい。 (男というのは、困ったものぞ・・・・) そこへ浅野
長政 がやって来た。
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