〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/30 (日) 平 和 の 供 物 (九)

「よい。茶屋であっても松本氏であっても、それはわれらの問うところではない」
黒い影は用心深く一定の距離を保って、
「おぬし城内に誰をたずねた」
茶屋は大人おとな げないと思いながらもムッして、
「それを言わねばどうなされまする」
「斬る!」
まことにあっさりと、竹を割ったような答えであった。
「ほう・・・・これは耳よりな」
茶屋にもまた三河武士の血が流れている。語尾に笑いを交えたのは、せめてもの自制であった。
「お城へご挨拶にあがって斬られたとあれば話のたね 、何かこの茶屋に不都合がござりましたか」
「ある」
「と、だけでは得心とくしん がゆかぬ。どのようなご不審であろうか」
「おぬしはこれから京へ戻ろう」
「仰せのとおり、徳川家の呉服ご用、京の茶屋でござりまするゆえ」
「おぬしは筑前が出入りの者と特別懇意こんい と聞いている。中には、おぬしを、小牧の陣中へまぎれ込んで来た筑前が間諜かんちょう という者もあるが、それまでは信ぜぬ」
「なるほど」
茶屋は感心したように嘆息をついた。
「そのような噂がございましたか。なるほどそれはお信じなさらぬ方がよい。まことこの茶屋が間諜ならば、お館さまがとうに斬っておしまいなされたはず。して私が、行く先を申し上げましたら・・・・」
「申せ。しかと」
「ハハハ、ご存知でござりましょう。ご城代、石川さまのもとへ、お別れの挨拶に参ったことは」
茶屋がすらすらと答えてゆくと、二つの影は、ちょっと顔を見合わせた。
はじめの短気そうな態度が、しだいに落ち着きを取り戻して来ている。
「申せ。ご城代が、おぬしに話したことを」
「これはしたり。話したことは世間話で・・・・」
「それを申せ」
「申さねば、やはり斬りまするか、この茶屋を」
「そうだ、斬る!」
「やれやれ、では話さずばなりますまい。ここで斬られては身代しんだい 限りじゃ」
再び噴き上げて来る怒りをおさえて茶屋は笑った。
「筑前が人質を出せと申して来たと、ひどく怒っておられました」
「怒っていたと?」
「されば、このようなことを重ねて申さば、大坂城の奥絵に、腹かき切って叩きつけて来ると、それはもう大そうなお腹立ちで・・・・」
「嘘はないな」
「嘘・・・・嘘とは心外な。茶屋も以前は三河武士。白刃がこお うて嘘をつくような腰抜けではござりませぬ。それゆえはっきりと申しました。そう腹をお立てなされては損でござりましょうと・・・・」
「なに損だと!?」
相手はまた顔を見合わせてうなずきあった。
二人の手代はどうなることかと、木蔭にひそんで、ハラハラと、震えながら対話に耳をかしげている。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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