相手は名に負う知将の秀吉なのである。その秀吉を向うにまわして、互角の謀略を考えてゆかねばならない数正の立場。 万一秀吉の肚を読み誤って、隙を見せるようなことがあったら、秀吉勢は怒涛
のように小牧山を洗い去ったに違いない。 したがって、味方も攻めぬが、敵にも断じて攻めさせてはならない。家康の肚と称して秀吉に密告してゆくことは、事実は家康の肚であって、同時にまた秀吉方の利益にもなるよう、緻密
な計算のもとに割り出された唯一
の答えでなければならなかった。 その間に、一分の狂いでもあたら、敏感な秀吉は、数正が家康の意を受けて動いていることを、すぐに看破してしまったであろうし、それを看破されてはどのような手で裏をかかれるか分らなかった。 こうして双方ともに、戦うことの不利を植えつけながら、的確に秀吉の動きを掴
んで味方の布陣をこれに対応させていったのだから、その戦功は比較するものもないほど大きかった。 秀吉は、四月いっぱい小松寺山にいて、数正の密告が充分に信頼できるものであることを確かめると、はじめて木曾
川 に船橋を架
けさせてこれを渡り、各務
ケ原 を経て美濃の大浦
に入った。 戦線の膠着
を打開するため、東軍の美濃における諸城を攻めはじめると見せかけて動きだし、加賀野井
城 、竹ケ鼻城と攻めて、一度大坂へ引き揚げたのが六月の二十八日だった。 このとき、伊勢方面でも秀吉は活発に兵を動かした。松ケ島、嶺の諸城から、神戸、国府、千草、浜田、楠と陥
していったが、これはもはや家康を降
すためとは全く別の目的になっていた。 家康と平和を結ぶためには、まず信雄
と講和しなければならない ── そう考えての用兵で、そう考えさせるように仕向けていったのもまた数正であった。 家康は義によって信雄を助かるために出兵して来たのである。したがって、本人の信雄が秀吉と和してしまえば、すべては終わったものとして、徳川勢は引き揚げ得る道理であった。 その後も、小ぜりあいはしばしばあったが、すでに双方の肚は決まっていたので、秀吉も家康も、それぞれ自分の面目を傷つけることなく、信雄と秀吉が講和できるよう、充分な含みを持たせての動きだったと言ってよい。 そうして八月二十八日に、再び大坂から出て来た秀吉との間に小牧の周辺で偵察戦があったが、それを最後にして休戦状態に入り、家康は九月二十七日に清洲へ入り、十月十七日には三河へ引き揚げて、それから講和の交渉に入ったのだった。 そしていま、秀吉との交渉いっさいを任せられて取り仕切って来た石川数正の上にのしかかっている問題は、秀吉から家康に求めて来た人質の問題であった。 家康の子供一人に、石川数正と本多作左衛門の両家老の子供を添えて大坂に送るようにと提議してきたので、そのことで家中が憤怒
にわき立っているところであった。 「── 数正はいったいどちらの味方なのじゃ」 「── 勝った方が人質を出す・・・・聞いたこともない話じゃ。ならぬ!
と、なぜ一喝 して戻って来なかったのか」 そうした数正の住む岡崎城の三の丸に、茶屋四郎次郎がたどり着いたときは、氷雨
は本降りになっていた。 |