〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/28 (金) 平 和 の 供 物 (一)

松本四郎次郎清延は、また以前の茶屋四郎次郎にもどって、二人の手代をとも なって浜松から京へ戻る途中であった。
すでに季節は十一月の下旬で、岡崎へつづく街道の葉をおとしたけやき 並木なみき に、木枯こがらし が音をたてて吹き荒れていた。
四郎次郎は、ときどき立ちどまって草鞋わらじひも を締め直しながら、なぜともなしに目頭めがしら が熱くなってならなかった。
春からこの月の始まで一年近く続いた戦は終わって、いま、家康と秀吉の間には講和がなろうとしている。
いや、なるものと見きわめて、再びもとの町人に戻る事を許された茶屋であった。
「以前にはな・・・・」
茶屋は、足をとめて待つ手代に、
「町人になりきろうとしながら、ときどき武士の暮らしを忘れかねたもの・・・・だが、こんどという今度は、ふっつりと縁を切れそうじゃ」
手代は主人が何を言い出そうとしているのか分らぬらしく、笠のうちであいまいに顔を見合わせてうなずき合った。
「武士というのは、どこまで罪の深いものかのう・・・・」
「戦を、するからでござりまするか」
「そうじゃ、戦もする・・・・」
四郎次郎は、これもべつに二人に分らせようとしているのではないらしく、腰をのばして、暗澹あんたん とした空を見上げながら吐息といき をした。
「義理という、目に見えぬなわ でがんじがらめにされてな、身動きもようできぬ・・・・それにまわりの人々も単純すぎる」
「さようでございますかな」
「そうじゃ。わしが、何でこのようなことを言うか、お前たちには分るまい」
「はい」
「ハハ・・・・、分るはずはなかったの。わしは、分るように話してなかった」
「さようでございます」
「実はな、わしはいま、岡崎で、さるお人の会って行こうか、止そうかと、そてに迷っているところじゃ」
「岡崎の・・・・どなたさまでござりまする」
「うん、話してもせん ないことじゃが・・・・」
自分で自分に言いきかせるように、
「ご城代の石川数正さまにな」
手代は、またちらりと眼を見合ったまま黙って歩いた。
彼らには城代といえば、偉い大将と分る程度で、それ以上の感慨はなにもなかった。
茶屋はそれに気づいたと見えて、また淋しげに笑っていった。
「石川さまと言えばの、こんどの戦で、どれほどご家来衆の生命をお助けなされたか分らぬ、大恩人じゃ」
「ご家来衆の生命を・・・・」
「そうじゃ。小牧にあって、味方に無駄な戦を一切いっさい させなかったのはこのお方じゃ。ところが、いまはそのお方が、ご家来衆に自分の生命を狙われてござらっしゃる」
「大恩人が・・・・で、ござりますか」
「そうじゃ!」
と、茶屋は首をすくめて、
「う、寒い。みぞれ模様もよう になって来たの」
「はい」
「よし、やっぱり寄って参ろう。商人に戻ってはまた逢うこともあるまいからの」

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next