「殿! 耳に入らぬのかこの忠勝の声が」 「入っている。静まれ」 家康は、一度手を止めた小姓に、そのまま鎧を取らせて、喰いつくような表情の忠勝に笑いかけた。 「まあ、掛けよ、そこに・・・・」 「殿は・・・・殿は、味方に勝ち味がないと言わっしゃるのかッ」 「いいや、あるであろう。あるが、出ては行かぬのじゃ」 「なんと言わっしゃる!?
勝てる戦でも出ては行かぬと・・・・」 「そうじゃ」 家康は大きくうなずいて、ぐっと表情を引きしめた。 「もうイっても間に合うまい」 「いや、なだ間に合う!
秀吉は、長久手でわれらの姿を探していよう」 家康はゆっくりと首を振った。 「もう気づいて、あわてて引き返しているに違いない」 「どこへ引き返すと言わっしゃryのじゃ」 「楽田じゃ。さもないと、おぬしのような暴れ者に退路を断たれる。それくらいのことの分らぬ筑前ではない。聞け鍋
!」 家康が、忠勝の幼名鍋之助の、鍋で呼ぶ時は、きまって意見をする時だった。忠勝もまた、鍋と呼ばれると、つい、少年のころを思い出して、何となく怒りの的をはずされてゆくのである。 「分らぬ事を言わっしゃる殿じゃ。分らぬ!
この好機・・・・一生の悔いになろうに・・・・」 言いながら、小姓の持ち出す床几にかけて、はじめて平手でおとがいの汗をはらった。 「戦はな、勝ちすぎてはならぬものじゃ」 「な・・・・な・・・・なんじゃと・・・・」 「ここで秀吉を逃がしておくが、まことの戦と申すのじゃ」 「ふん、そのようなことを言うて、いまに秀吉に首を取られる。それでも勝ちと言わっしゃるのか」 家康はそれには答えず、 「いま秀吉を討って見よ。日本中、麻
のように乱れてゆくわ」 そっと空を見上げて、つぶやくような声になった。 「わしにはな、秀吉ほどの力はない。逆上して秀吉を討って見よ。信長を討った光秀と同じ目に遭
う。光秀は勝って負けたのじゃ」 「これはいよいよおかしなことを・・・・ 「おかしくはない。鍋! ここではな、よくよく神仏のお心を考えてみねばならぬじゃ。神仏は、もはや戦に飽きておわす・・・・その時にわざわざ秀吉を討って世を乱してはならぬのじゃ。秀吉に、わしの代わりに天下を取らせたとて、わしが秀吉の下風
に立たねばよいではないか。よいか、わしがここで「秀吉を討ってみよ。日本中の大名を相手にして戦わねばならなくなる。そのわしの代わりに秀吉がみんなの矢面
に立っていてくれる・・・・秀吉で治まるものを、わざわざ乱世にしていっては、わしの誓いが嘘になる。わしは、神仏の意を体して、早く戦のない世にしますと心願を立てて来たのだ」 家康の眼が、ひたと忠勝の面に据えられると、忠勝は、じれきって鼻を鳴らした。 「嘘じゃ。それは・・・・嘘じゃ!
自分で天下を取って定める。それが心願のはず・・・・殿は気遅れしているのじゃ」 |