〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/28 (金) 鹿 と 瓢 (七)

「殿! 耳に入らぬのかこの忠勝の声が」
「入っている。静まれ」
家康は、一度手を止めた小姓に、そのまま鎧を取らせて、喰いつくような表情の忠勝に笑いかけた。
「まあ、掛けよ、そこに・・・・」
「殿は・・・・殿は、味方に勝ち味がないと言わっしゃるのかッ」
「いいや、あるであろう。あるが、出ては行かぬのじゃ」
「なんと言わっしゃる!? 勝てる戦でも出ては行かぬと・・・・」
「そうじゃ」
家康は大きくうなずいて、ぐっと表情を引きしめた。
「もうイっても間に合うまい」
「いや、なだ間に合う! 秀吉は、長久手でわれらの姿を探していよう」
家康はゆっくりと首を振った。
「もう気づいて、あわてて引き返しているに違いない」
「どこへ引き返すと言わっしゃryのじゃ」
「楽田じゃ。さもないと、おぬしのような暴れ者に退路を断たれる。それくらいのことの分らぬ筑前ではない。聞けなべ !」
家康が、忠勝の幼名鍋之助の、鍋で呼ぶ時は、きまって意見をする時だった。忠勝もまた、鍋と呼ばれると、つい、少年のころを思い出して、何となく怒りの的をはずされてゆくのである。
「分らぬ事を言わっしゃる殿じゃ。分らぬ! この好機・・・・一生の悔いになろうに・・・・」
言いながら、小姓の持ち出す床几にかけて、はじめて平手でおとがいの汗をはらった。
「戦はな、勝ちすぎてはならぬものじゃ」
「な・・・・な・・・・なんじゃと・・・・」
「ここで秀吉を逃がしておくが、まことの戦と申すのじゃ」
「ふん、そのようなことを言うて、いまに秀吉に首を取られる。それでも勝ちと言わっしゃるのか」
家康はそれには答えず、
「いま秀吉を討って見よ。日本中、あさ のように乱れてゆくわ」
そっと空を見上げて、つぶやくような声になった。
「わしにはな、秀吉ほどの力はない。逆上して秀吉を討って見よ。信長を討った光秀と同じ目に う。光秀は勝って負けたのじゃ」
「これはいよいよおかしなことを・・・・
「おかしくはない。鍋! ここではな、よくよく神仏のお心を考えてみねばならぬじゃ。神仏は、もはや戦に飽きておわす・・・・その時にわざわざ秀吉を討って世を乱してはならぬのじゃ。秀吉に、わしの代わりに天下を取らせたとて、わしが秀吉の下風かふう に立たねばよいではないか。よいか、わしがここで「秀吉を討ってみよ。日本中の大名を相手にして戦わねばならなくなる。そのわしの代わりに秀吉がみんなの矢面やおもて に立っていてくれる・・・・秀吉で治まるものを、わざわざ乱世にしていっては、わしの誓いが嘘になる。わしは、神仏の意を体して、早く戦のない世にしますと心願を立てて来たのだ」
家康の眼が、ひたと忠勝の面に据えられると、忠勝は、じれきって鼻を鳴らした。
「嘘じゃ。それは・・・・嘘じゃ! 自分で天下を取って定める。それが心願のはず・・・・殿は気遅れしているのじゃ」

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next