〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/28 (金) 鹿 と 瓢 (八)

家康はもう忠勝を無視して、本多正信と話しだした。正信に、秀吉の引き揚げるさまを調べさせ、それに備えながら家康もまた、出来るだけ早く小牧山へ引き揚げようという肚らしかっら。
(今日の戦勝を、一時のこととして、再び以前の対陣に戻ろうとする・・・・)
忠勝はプリプリしながら陣幕の外に出た。
腹立ちはまだ納まりそうにもなかった。
(せっかくの勝利を・・・・)
と、思うと、家康のために忌々いまいま しくてならないのだ。
(おかしな人になったぞ。うちの大将は)
神仏が声を出して、誓いを破るなと言うはずはないし、信雄と家康と北条父子の三者が結んでいったら、立派に日本中を敵として戦えるのに、ひどく秀吉を恐れだしている。
(この辺が、殿のせいいっぱいのところだったのか)
もともと天下の取れるうつわ ではなく、駿すんえんさん のほかに甲州と信州の一部を手に入れたので、それで充分と思っているのではなかろうか。
(そんな殿にしたのはいったい誰であろう?)
外はまだ陽が高く、城の周囲は、一息いれた人馬であふれている。
昨夜一睡もしなかったので、草の上に倒れて、死んだように眠っている雑兵が多かった。
「本多どの!」
草を蹴散らすようにして、大手前へ止めてあった三浦みうら きゅう 兵衛べえ牧野まきの 惣次郎そうじろう のもとへ戻って来ると、そこにもう一人眼を血走らせて彼を待っている男があった。
まっ先に秀次の陣へ切り込んで戦勝の因を作った水野忠重だった。
「忠重どのか、難の用じゃ」
「お館は、秀吉勢の攻撃を許さぬ。お身も一緒に行ってくれぬか」
「どこへ行くのじゃ」
「お館のもとへ・・・・秀吉は、今夜竜泉寺まで退いて宿営し、夜明けを待ってこの小幡城を攻める肚と見きわめがついたのだ。このままに捨ておいては一大事、今夜夜襲をして秀吉の首級を挙げねばならぬ」
「だめじゃ!」
と、忠勝は無愛想に首を振った。
「いますぐ追おうというのさえ許さぬ。夜襲などを許すものか」
「許さぬというて捨ておいては相済むまい。明早朝・・・・」
「分ってござる! 明早朝になったら殿も分ろう。が、いまは秀吉の新手に怖気おじけ づいていて話しにならぬ。おれの考えでは・・・・」
「お身の考えでは?」
「殿をこう臆病にしたものは、知恵者ぶった正信だの、石川数正だののような気がする。どうも数正が臭い! あやつ、おれに、犬山城の留守も攻めさせなんだ・・・・」
そう言うと、忠勝は、そのままさっさと牧野惣次郎の陣幕に入った。
そのころには秀吉はすでに長久手から竜泉寺へ引っ返し、水野忠重のいうとおり、そこから改めて小幡城攻めを決行するための戦評定を開いていた。
したがって、このまま今夜を小原城で過ごしては、それこそ家康勢は大打撃を受けねばならぬことになろうが・・・・

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ