家康はもう忠勝を無視して、本多正信と話しだした。正信に、秀吉の引き揚げるさまを調べさせ、それに備えながら家康もまた、出来るだけ早く小牧山へ引き揚げようという肚らしかっら。 (今日の戦勝を、一時のこととして、再び以前の対陣に戻ろうとする・・・・) 忠勝はプリプリしながら陣幕の外に出た。 腹立ちはまだ納まりそうにもなかった。 (せっかくの勝利を・・・・) と、思うと、家康のために忌々
しくてならないのだ。 (おかしな人になったぞ。うちの大将は) 神仏が声を出して、誓いを破るなと言うはずはないし、信雄と家康と北条父子の三者が結んでいったら、立派に日本中を敵として戦えるのに、ひどく秀吉を恐れだしている。 (この辺が、殿のせいいっぱいのところだったのか) もともと天下の取れる器
ではなく、駿 、遠
、三 のほかに甲州と信州の一部を手に入れたので、それで充分と思っているのではなかろうか。 (そんな殿にしたのはいったい誰であろう?) 外はまだ陽が高く、城の周囲は、一息いれた人馬であふれている。 昨夜一睡もしなかったので、草の上に倒れて、死んだように眠っている雑兵が多かった。 「本多どの!」 草を蹴散らすようにして、大手前へ止めてあった三浦
九 兵衛
と牧野 惣次郎
のもとへ戻って来ると、そこにもう一人眼を血走らせて彼を待っている男があった。 まっ先に秀次の陣へ切り込んで戦勝の因を作った水野忠重だった。 「忠重どのか、難の用じゃ」 「お館は、秀吉勢の攻撃を許さぬ。お身も一緒に行ってくれぬか」 「どこへ行くのじゃ」 「お館のもとへ・・・・秀吉は、今夜竜泉寺まで退いて宿営し、夜明けを待ってこの小幡城を攻める肚と見きわめがついたのだ。このままに捨ておいては一大事、今夜夜襲をして秀吉の首級を挙げねばならぬ」 「だめじゃ!」 と、忠勝は無愛想に首を振った。 「いますぐ追おうというのさえ許さぬ。夜襲などを許すものか」 「許さぬというて捨ておいては相済むまい。明早朝・・・・」 「分ってござる!
明早朝になったら殿も分ろう。が、いまは秀吉の新手に怖気
づいていて話しにならぬ。おれの考えでは・・・・」 「お身の考えでは?」 「殿をこう臆病にしたものは、知恵者ぶった正信だの、石川数正だののような気がする。どうも数正が臭い!
あやつ、おれに、犬山城の留守も攻めさせなんだ・・・・」 そう言うと、忠勝は、そのままさっさと牧野惣次郎の陣幕に入った。 そのころには秀吉はすでに長久手から竜泉寺へ引っ返し、水野忠重のいうとおり、そこから改めて小幡城攻めを決行するための戦評定を開いていた。 したがって、このまま今夜を小原城で過ごしては、それこそ家康勢は大打撃を受けねばならぬことになろうが・・・・
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