〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/26 (水) 鹿 と 瓢 (六)

おそらく秀吉の生涯で、これほどひどく目算もくさん の外れた戦は初めてだったに違いない。
小癪こしゃく な本多忠勝の挑戦に、じっと肚の虫をおさえ、まっしぐらに目ざして来た戦場に、敵の姿がなかったのだ・・・・
秀吉は再び彦右衛門の伜蜂須賀家政と、日根野弘就に偵察を命じた。
「一鉄はおそい、その方たちの手からも八方へ人を出して探らせよ。家康はどうしたのじゃ。どこにもぐっておるのじゃ」
めざす相手の本陣が分らなくなったのだから、薄気味わるさは想像のほかであった。
と、一方、秀吉をこの疑惑の中へ誘い込んだ本多忠勝は、そのころどこにいたのであろうか・・・・
忠勝は馬をあお って、前夜家康の泊った小幡城に向かっていた。
彼は、彼の怒りにかられた悪童のような秀吉勢への進出妨害が、家康の進退を計り知れないほどに助けたことなど全く知らず、
(今ごろ、小幡に引きあげるとは何というとぼけた殿なのだ・・・・)
再びカンカンになって怒りだしていた。
おい の三好秀次はじめ、池田、堀の両勢を潰滅させられ、秀吉はいまあせきりきっている。
今こそ勝ち誇った味方を煽って、秀吉を一挙に叩き潰す絶好の時なのだ。
小牧にはまだ酒井忠次と石川数正が控えているので、敵は早急に増援を送り得ない。
(それなのに、小さな勝利に甘んじて・・・・)
忠勝は、まだ遅くはないと信じていた。これから家康にすすめて秀吉勢の後方から襲いかかったら、秀吉は、長久手の山野へとりこになったも同様だった。それを得意の野戦で縦横じゅうおう に蹴散らしてやったら、日没までに大勢は決してゆく。
(見す見す目の前に、天下がころがっているというのに、それを取ろうともせず、小幡へ入って休息とは、何という殿であろうか)
それだけに、
「殿はいずれじゃ、殿々・・・・」
小幡城に引きあげて、まだ血ぬれた具足のまま固めにかかっている士卒の間を、風のように駆け抜けていった。
「旗本の奴らもとぼけたものじゃ。一人も殿に、この好機を進言するも者がなかったのか」
ひらりと馬を降りると、赤鬼そのままの形相ぎょうそう で、
「殿!」 と、家康の幔幕まんまく にとびこんで、
「この、ざまは、何でござりまする」
と、怒鳴り立てた。
家康は今、かぶと をとって、額の汗を拭き出したところであった。
「おや、平八ではないか」
「いかにも平八でござる。殿! 秀吉はいま、あせりにあせって長久手へやって来て、あっけらかんとしてござる。天下は宙ぶらりんじゃ。早く兜を・・・・馬を・・・・」
「あせるなッ」
「急いで、殿! 寝とぼけてござるときではありませんぞ」
「寝とぼけているものか。落ち着け、秀吉が何としたのだ」
言いながら家康は、小姓に命じて、よろい の胴のひも をとかせてゆく。
くなッ!」
と、忠勝はおどりあがって小姓を叱った。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next