おそらく秀吉の生涯で、これほどひどく目算
の外れた戦は初めてだったに違いない。 小癪
な本多忠勝の挑戦に、じっと肚の虫をおさえ、まっしぐらに目ざして来た戦場に、敵の姿がなかったのだ・・・・ 秀吉は再び彦右衛門の伜蜂須賀家政と、日根野弘就に偵察を命じた。 「一鉄はおそい、その方たちの手からも八方へ人を出して探らせよ。家康はどうしたのじゃ。どこにもぐっておるのじゃ」 めざす相手の本陣が分らなくなったのだから、薄気味わるさは想像のほかであった。 と、一方、秀吉をこの疑惑の中へ誘い込んだ本多忠勝は、そのころどこにいたのであろうか・・・・ 忠勝は馬を煽
って、前夜家康の泊った小幡城に向かっていた。 彼は、彼の怒りにかられた悪童のような秀吉勢への進出妨害が、家康の進退を計り知れないほどに助けたことなど全く知らず、 (今ごろ、小幡に引きあげるとは何というとぼけた殿なのだ・・・・) 再びカンカンになって怒りだしていた。 甥
の三好秀次はじめ、池田、堀の両勢を潰滅させられ、秀吉はいまあせきりきっている。 今こそ勝ち誇った味方を煽って、秀吉を一挙に叩き潰す絶好の時なのだ。 小牧にはまだ酒井忠次と石川数正が控えているので、敵は早急に増援を送り得ない。 (それなのに、小さな勝利に甘んじて・・・・) 忠勝は、まだ遅くはないと信じていた。これから家康にすすめて秀吉勢の後方から襲いかかったら、秀吉は、長久手の山野へとりこになったも同様だった。それを得意の野戦で縦横
に蹴散らしてやったら、日没までに大勢は決してゆく。 (見す見す目の前に、天下がころがっているというのに、それを取ろうともせず、小幡へ入って休息とは、何という殿であろうか) それだけに、 「殿はいずれじゃ、殿々・・・・」 小幡城に引きあげて、まだ血ぬれた具足のまま固めにかかっている士卒の間を、風のように駆け抜けていった。 「旗本の奴らもとぼけたものじゃ。一人も殿に、この好機を進言するも者がなかったのか」 ひらりと馬を降りると、赤鬼そのままの形相
で、 「殿!」 と、家康の幔幕
にとびこんで、 「この、ざまは、何でござりまする」 と、怒鳴り立てた。 家康は今、兜
をとって、額の汗を拭き出したところであった。 「おや、平八ではないか」 「いかにも平八でござる。殿! 秀吉はいま、あせりにあせって長久手へやって来て、あっけらかんとしてござる。天下は宙ぶらりんじゃ。早く兜を・・・・馬を・・・・」 「あせるなッ」 「急いで、殿!
寝とぼけてござるときではありませんぞ」 「寝とぼけているものか。落ち着け、秀吉が何としたのだ」 言いながら家康は、小姓に命じて、鎧
の胴の紐 をとかせてゆく。 「解
くなッ!」 と、忠勝はおどりあがって小姓を叱った。 |