〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/25 (火) 鹿 と 瓢 (四)

忠次は、その態度で忠勝の不平を押さえようとしたのに違いない。
内心では忠勝の犬山城攻めに賛成なのだが、石川数正がこう頑固に反対するのでは止むを得まい・・・・そう思わせて忠勝の怒りを静めようとしたのだが、怒っている忠勝はそれを逆に受け取った。
忠次も数正に言い伏せられたと思ったのだ。
「そうか、分った!」
彼は憤然として、岩くれのような腕をのばし、いきなり自慢の兜を取って席を蹴った。
敵味方の間に鳴りひびいた三股鹿のつの の大兜であった。
「おれはともかくここにはいられぬ」
「待てッ、忠勝!」
「いや待たぬ。犬山攻めが出来ねば出来ぬであよい。おれは一人で覚悟を決めた!」
「待てと申すのじゃ」
「待たぬと申すのじゃ」
あわてて引きとめようとする数正に、浴びせるように怒鳴り返して、そのまま北側の自分の陣へ取って返すと、犬山とは反対に、こんどは秀吉の後を追い出した。
「手をこまねいているほどなら、秀吉と引っ組んで死んでやるわい!」
本能的に、家康の危険を感じてのことであったが、その行動は全く理性を えていた。
彼はわずかに五百あまりの手兵を引きつれ、竜泉寺を発した秀吉の本隊に追いつくと、駒をあおって千成瓢の馬印に並行し、いきなりこれに発砲していった。
なが 久手くて へ急行している秀吉は、これを見て眼を丸くした。
改めて何者だと訊くまでもなかった。ぐんぐんと秀吉の後尾をぬいて来て、小川をへだ てた向うの道を並行したまますすんで来る。まっ先の鹿の角の大兜は、それが本多平八郎忠勝と一眼でわかるからだった。
「やーイ、止まれッ猿面!」
と、両者の間が、川幅だけになると忠勝はわめきかけた。
「それとも、この兜が、恐ろしくて止まれぬのか。千成瓢は三河の鹿に出遇うてしぼんだのかッ」
その悪罵あくば と発砲にたまりかねて、
「殿!」
と、荒小姓たちは秀吉に言った。
「あの無礼なはえ め、 み潰してはなりまでぬか」
しかし、秀吉は、それを許さなかった。彼はこの悪罵を考えあっての進出妨害と見てとっているからだった。
「やいやい、その大軍は木偶でく か人形か。生きた武者はおらぬのかッ」
そのつど、秀吉の旗下きか は、小波さざなみ 立って歩みを止めようとする。そのわずら わしさは、たしかに蠅のようであった。
「殿、ひと揉みに、あの無礼者を・・・・」
「捨ておけ、捨てておいて長久手へ急げ。あのような突飛とっぴ な事の出来る奴は生けておくものじゃ。死ぬ気の奴を殺してみたとて、向うの思う壺であろうが・・・・」
てんで相手にされないと分ると、こんどは忠勝は、秀吉勢の前方へ出てうるさくまつわりだした。
「羽柴筑前がひさご を、三河の鹿が喰うて見せる。とまらぬかッ」
それはさながら、逆上した悪童。たまりかねて、秀吉勢から、狙い撃ちがはじまった。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next