石川数正は、年長者らしい落ち着きで、 「みな殿のお考えのうちにあったことじゃ。平八どのはそれを思わぬのか」
と、切り返した。 「殿が、池田勢を追っていったと気がつけば、筑前がさらにそれを追ってゆく・・・・そのくらいのことを考慮に入れぬ殿ではない。うかつに犬山城など攻めて見さっしゃい、収拾
できぬことになろう」 「ええッ、歯痒いッ!」 忠勝はもう一度歯をかみ鳴らして舌打ちした。 彼の考えでは、秀吉があたふたと楽田を出発していったゆえ、その留守に数正、忠次、忠勝の三人で、手薄になっている犬山城を一挙に手に入れようというのであった。 そうすれば中入りする気で行った敵が見事中入りされる結果になる。今をおいてその機会はない。すぐに攻めようと言い出したのに対し、石川数正は、頑強に反対しているのだ。 数正の言い分は、そのような危険を冒
して、もし敵に囲まれ、小牧山へ引きあげ得ぬようなことになったら何とするか? 家康は、われらに、ここをきびしく守れととは命じて出ていったが、隙あれば犬山城を攻めよとは言わなかった。 万一家康勢が、池田勢を破ってひきあげて来た時に、小牧山が敵の手に落ちているようなことがあっては、たとえ犬山城を手に入れても、それは決して利益にはならぬ。むしろ、一時的にせよ混乱を引き起こし、悪くすると、清洲まで後退を余儀なくされよう。そうなっては城攻めに巧みな秀吉に、犬山、清洲で各個に囲まれる恐れがあるというのだった。 「おれが言おうのは、犬山城へそのままみんなで居残れと言うのではない。誰かが一人残ってあとの二人はここへ引っ返す・・・・小牧と犬山の二つを手に入れる策なのだ。それをなぜ、犬山と小牧を引き替えにするように言葉を曲げて反対するのか」 「反対する。いまは二兎
を追う時ではない。ここでじっと殿の次の指図を待つ時じゃ」 「石川どの!」 「何度言われても、小牧の留守を預けられた数正、賛成はいたしかねる」 「貴殿、陣中へとかくの噂があるのをご存知か」 「何の噂じゃ。知らぬ。また知ろうともせぬ」 「知ろうともせぬはずじゃ。貴殿が筑前がもとへたびたび密使を出している。事によると石川数正、秀吉に通じているのではあるまいか・・・・と、いう風評をご存知なかろう」 「なに・・・・わしが、秀吉に通じておると!」 「おう、それゆえ犬山城を攻めるなと申す・・・・そうした噂が飛んでも、おれは知らぬと言ったのだ」 「だまれ。だまれ平八・・・・」 二人が少しも譲らないので、酒井忠次がたまりかねて割って入った。 「敵に通ずるの通じないのと、穏
かでないことを言うな」 「風評だと言ったのだ。風評はおれの責任ではない。他人の口に戸が立てられるか」 まだ言い募ろうとする忠勝をおさえて、 「では数正は、どうあっても、犬山攻めはせぬというのだな」 「されば、勝ってさして利にならず、負ければそれこそ一大事じゃ」 それを聞くと、忠次は大きくうなずいて、 「よし、わしもやめた。平八。おぬしも止めよ」 と荒々しく立ち上がった。
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