暦の上ではすでに四月九日だったが、夜にまぎれて進む池田勢びとってはまだ八日の続きであった。 こまかい霧雨の中を粛々
と馬を駆りながら、池田勝入はさっきから何度もクシャミをした。 「風邪
を引かれたのではござりませぬか」 馬を並べている二男の輝政が声をかけると、勝入は笑いながら舌打ちした。 「たわけたことを言うな。夜行軍でクシャミが出るのは夜明けが近づいたということじゃ」 「夜明けに風邪をひくものと聞いておりますゆえ、心にかかりましたので」 「よけいなことじゃ。鍛え方が違う。このあたりはな、その昔、右府さまのお供をしてさんざん夜遊びをして歩いた村じゃ。フフフフ」 「何がおかしいのです妙な笑い方で」 「う・・・・想い出したのじゃ。右府さまや、筑前どのと、村々を踊り歩いた昔のことをな」 勝入はそこで、もう一つ思いきりクシャミをしてから、 「噂している者があるらしい」 「誰が・・・・でござりまする」 「村人たちよ。おもしろいものだ・・・・」 勝入はひどく上機嫌で、 「わしは、前例のない、よい領主になってやるぞ」 「は・・・・何と仰せられましたので」 「その昔と同じようにな、戦が済んだら、村人たちと踊ってやろう。領主と領民がひとつになって踊りまくる・・・・愉快なものじゃ。今でも眼に見える」 「父上・・・・」 「何じゃ」 「勝ってからの話、まだ早うござりましょう」 「ハハハ・・・・ここまで来ればもう早くはない。われらの馬は三河へ向かって進んでおるわ」 勝入はそう言ってから、また思い出したように、 「しかし、筑前どのは、よくわれらの意見を容
れたものじゃ。この分だと、家康は岡崎へ仕掛けるまで、わららの中入りには気づかぬかも知れぬ」 二男の三左衛門輝政は答えなかった。父の言うとおり、すでに道は三河街道。せっかく上機嫌の父にあらごうこともあるまいと思ったのだ。 しばらく父子は黙ったまま闇の中を進んだ。たしかに夜明けが近いと見えて、冷えた頭上の空のあたりが白みかけたような気がする。 「申し上げます」 「なんだ」 「夜が明けかけました。丹羽氏次の岩崎城が見えまするが、いかがいたしましょう」 なだよく顔は見えなかったが、声は家老の片桐
半右衛門 だった。 「いかが・・・・とは、何のことだ半右衛門」 「夜明けの血祭りに、踏み潰
して通った方が、あとの為ではござりますまいか」 「なに・・・・血祭りは岡崎城じゃ。捨ておけ捨ておけ。そんな小城などに眼をくれるな」 勝入は笑いとばして馬も停めなかった。 |