〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/16 (日) 勝 入 戦 法 (八)

暦の上ではすでに四月九日だったが、夜にまぎれて進む池田勢びとってはまだ八日の続きであった。
こまかい霧雨の中を粛々しゅくしゅく と馬を駆りながら、池田勝入はさっきから何度もクシャミをした。
風邪かぜ を引かれたのではござりませぬか」
馬を並べている二男の輝政が声をかけると、勝入は笑いながら舌打ちした。
「たわけたことを言うな。夜行軍でクシャミが出るのは夜明けが近づいたということじゃ」
「夜明けに風邪をひくものと聞いておりますゆえ、心にかかりましたので」
「よけいなことじゃ。鍛え方が違う。このあたりはな、その昔、右府さまのお供をしてさんざん夜遊びをして歩いた村じゃ。フフフフ」
「何がおかしいのです妙な笑い方で」
「う・・・・想い出したのじゃ。右府さまや、筑前どのと、村々を踊り歩いた昔のことをな」
勝入はそこで、もう一つ思いきりクシャミをしてから、
「噂している者があるらしい」
「誰が・・・・でござりまする」
「村人たちよ。おもしろいものだ・・・・」
勝入はひどく上機嫌で、
「わしは、前例のない、よい領主になってやるぞ」
「は・・・・何と仰せられましたので」
「その昔と同じようにな、戦が済んだら、村人たちと踊ってやろう。領主と領民がひとつになって踊りまくる・・・・愉快なものじゃ。今でも眼に見える」
「父上・・・・」
「何じゃ」
「勝ってからの話、まだ早うござりましょう」
「ハハハ・・・・ここまで来ればもう早くはない。われらの馬は三河へ向かって進んでおるわ」
勝入はそう言ってから、また思い出したように、
「しかし、筑前どのは、よくわれらの意見を れたものじゃ。この分だと、家康は岡崎へ仕掛けるまで、わららの中入りには気づかぬかも知れぬ」
二男の三左衛門輝政は答えなかった。父の言うとおり、すでに道は三河街道。せっかく上機嫌の父にあらごうこともあるまいと思ったのだ。
しばらく父子は黙ったまま闇の中を進んだ。たしかに夜明けが近いと見えて、冷えた頭上の空のあたりが白みかけたような気がする。
「申し上げます」
「なんだ」
「夜が明けかけました。丹羽氏次の岩崎城が見えまするが、いかがいたしましょう」
なだよく顔は見えなかったが、声は家老の片桐かたぎり 半右衛門はんえもん だった。
「いかが・・・・とは、何のことだ半右衛門」
「夜明けの血祭りに、踏みつぶ して通った方が、あとの為ではござりますまいか」
「なに・・・・血祭りは岡崎城じゃ。捨ておけ捨ておけ。そんな小城などに眼をくれるな」
勝入は笑いとばして馬も停めなかった。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next