〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/16 (日) 勝 入 戦 法 (七)

家康の笑いを聞くと、みんなも思い出したように私語しだした。いずれもすでに退屈気味だったので、士気は上乗だった。
「では、さっそく引き取ってそれぞれ用意に取りかかれ。進発は五ツ (午後八時) 、密かのこの山を下り、夜の明けぬうちに庄内川を渡って小幡おばた の城へ入ること」
家康はそう言ってから忠勝をさし招いて、信雄にこのことを告げさせた。
信雄を軍議に列させなかったのは、家康のいたわ りでもあり警戒でもあった。同伴しても、さして力になるとは思っていなかったが、しかし彼を小牧へ残すことはしなかった。
もし残していったら、信雄は心細さと疑心とで、大事なときに妄動もうどう しそうな懸念けねん があるからだった。
みなが張り切って仮り屋を出て行くと、そこで家康は改めて、忠次、忠勝、数正の三重臣に、秀吉の動きを充分に監視するよう秘命を伝えていった。
「こんどの戦は勝入戦法に始まるが、あとは秀吉と家康が腕競べ、運競べじゃ。しかと、この山は頼んだぞ」
夕方から、霧のような雨がおちだし、視界はほとんどきかなくなった。昼間、勝入勢の南下を気取られまいとして陽動した北正面の小ぜりあいも止んで、夜の幕が下ろされると、敵味方の陣営で焚くかがり火までがボーッと小さくかすんで見えた。
進発はどこまでも隠密に。
山からは前もって賦役ふえき の領民を下山させてあったので、どれだけの軍勢が、どの方向へ動き出したのか、部将以外には味方にも分らなかった。
が、その総勢は、いま、家康が現地で動かし得る最大のものであった。
小牧とその周辺に残した軍勢は約六千五百。残りの一万三千余は総動員されている。
したがって、この一戦、もし秀吉に縦横の活躍を許さんか、家康にとってはその生涯の努力の大半を失うことは明らかだった。
敵もまだ、続々と南下中に違いない。
先発の水野忠重と丹羽氏次は、道を春日かすが 井原いはら にとり、小幡城をめざしながら、途中で出あった土民はそのまま放つことはせず、案内を命ずるという口実で同行していった。
そして、南外山、勝川を経て庄内川を渡り、川村からまず小幡城に入って、家康の到着を待った。
家康は信雄とともに約九千の兵を率い、井伊直政に前衛を命じて、市之久田、青山、豊場、如意等の諸部落を過ぎ、竜源寺に少憩して兜を着し、勝川から牛牧を経て城に入った。
一方 ──
ひそかに、篠木、柏井に進出していた池田勝入以下の西軍は、八日夜の四ツ (午後十時) に、再び行動を起こして三河をめざした。
彼らは前面の庄内川を上手、中手、下手の三段に分けて渡ることとし、池田父子と森武蔵守とは大留おおとめ 村の大日堂渡しを越えて南方印場、荒井に出て、三河路をめざし、堀秀政は野田の渡しを越えてなが 久手くて に向かい、三次秀次は松戸の渡しをわたって何進し、猪子いのこ いし の白山林に陣した。
むろん彼らは、まだ家康が、彼らと前後して小幡城に入ったことは知らなかった。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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