「なに、敵が南下していると・・・・」 一瞬だったが、家康の面を狼狽の色がかすめ去った。 「たわけたことをいうな清延、そのような愚かな手を打つものか秀吉が」 「そうは言ったが、すぐ思い直したように、 「来い仮り屋へ」 先に立って小雨の中を歩きだした。 茶屋四郎次郎
── 今は、近侍の松本四郎次郎清延は、目顔で、百姓をうながしてそのあおtに従った。 清延の考えでも、敵勢の南下は意外であった。彼はあらゆる面から秀吉の性格を検討して、秀吉は、もはや家康と決戦はすまいと思いだしていた。 堅固な城を築いて長滞陣の用意をととのえ、そのまま何か政治的な手を打って和平の条件を出して来る。その条件がどのようなものであるか?
そこに両者の今後の駆け引きが展開されるであろうと見透
していた。 この清延の考えに、直接小牧山の守備に任じている石川伯耆守数正も同意見であった。 「── ここでは、先に仕掛けた側の犠牲が大きくなるからの。そのくらいのことの分らぬ筑前ではあるまい」 ところが、その秀吉勢が、昨夜から、密
かに南下しだしているという百姓の密告なのだ。それも身元の知れない百姓ではなかった。柏井村の長左衛門と言い、これはかねてから信長が、一揆その他の事故に備えて、密かに隠し手当てを与えて領民の中に養っていた三十六人衆の中の一人であったのだ・・・・ 家康はせかせかと二重に廻した柵門をくぐって、わが仮り屋の庭に来ると、そのまま家へ入らず、清延と百姓をふり返った。 ゆっくりと建物の中に入っていられなかったのであろう。 「清延、して、その情報を持って来たのは、それなる百姓か」 「はい」
と、清延は家康に答えておいて百姓をふり返った。 「おん大将じゃ。長左衛門とやら、もう一度見聞
のままを申してみよ」 「はい、しかし・・・・」 百姓はなぜか口ごもって、 「私は、あのう、清洲
のお館さまをお訪ねいたしたのでござりまするが」 「案ずるな、清洲の信雄さまを、お助けに来ている徳川さまじゃ」 「しかし・・・・われらは、故右府さまから食禄を頂戴
いたしております者の伜にて・・・・」 「相分った! それゆえ、その旨、おん大将に告げた後、われらから改めて清洲の殿に言上する」 「それでは順序が違いまするようで・・・・」 家康は、そうした二人の問答を聞いているうち、 (これは信じられる!)
と、直感した。 「よし、信雄どのをこれへお伴い申せ」 家康はそう言ってからゆっくりと仮り屋の縁に腰をおろして、 「ふーむ。すると只今も敵は、われらの背後をおびやかして進んでいるのか。これ百姓」 「はい・・・・はい」 「こなたの忠は忠に似て手ぬるいぞ。時遅れてはこなたの知らせも役に立たぬやも知れぬ」 百姓はハッとしたよに家康を見上げて、 「申し上げます!」 と、声を張った。
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