雨は降ったりやんだりした。 そして、そのたびに霧がはれたりかかったりする。 晴れると家康は仮り屋を出て、敵陣の変化をしさいに観察した。観察するたびに敵の陣地は、蟻
の塔を見るような急速さで半永久の備えに替わって行く。 家康はそのつど唇辺に笑いが浮かんだ。 秀吉の性格から判断すると、半永久的に、動かぬぞと見せかけることは、動きたくてたまらぬのだと分るからだった。 四月二日に、一度敵は山麓の姥
ケ懐 まで誘いに出て来た。しかし、それはあっさり追い払っただけで家康は長追いはさせなかった。 また、二重堀の日根野備中父子が、味方の陣地すれすれに出て来たときも、酒井忠次と顔を見合わせて反撃をおさえた。 「──
誘いじゃ誘いじゃ。誘いに乗るな。こうしている限り、味方の勝ち味じゃ」 忠次も笑いながら合い槌
を打った。 「── この山ひとつが、これほど役に立とうとは・・・・筑前も歯がゆがっておりましょうな」 「── そのことじゃ。勝入はなぜ取っておかなんだと叱られていることであろう」 「──
それにしても、このままでは退屈でならぬ。何とか仕掛ける手段も考えねば」 「── 急
くな。これは退屈くらべじゃ。その退屈に耐えかねて、必ず筑前は岐阜から坂本に引き揚げるときがあろう。筑前が引き揚げたらそのとき少々揶揄
しよう」 「── すると、これは、いつごろ勝負がつきますので」 「── 知らぬ。それは相手に訊くがよい」 「── 妙な戦になりましたなあ。これでは先のめどがつかぬ」 「──
忠次」 「── はい」 「── 戦わずに勝てる戦いは、わざわざあせって仕掛けることはあるまい。まあ、見ていよ。そのうちきっと敵の方から仕掛ける隙を作ってくれよう」 「──
と仰せられるが、敵もああして陣地をせっせと固めている。長滞陣は覚悟の前でござりましょう」 「── ハハハ・・・・もう少しで陣地のことも片がつく。片がつくと仕事がなくなる。なくなったときが見ものじゃ。人間じっとしているのは辛いものじゃぞ」 こうした問答には、ひとり忠次だけではなかった。榊原康政だけはニヤニヤ笑いながら落ち着きはらっていたが、井伊直政も本田忠勝も奥平信昌も、みな同じようなことを家康に言いに来て、同じようなさとされ方をして戻った。 今日は四月七日であった。 この日は朝から敵の動きがあった。 北正面の内久保。岩崎、外久保のあたりから、足軽隊が進出して来て、榊原康政の隊とこぜりあいをやっていた。 (いったい何のために動いたのか・・・・) 家康は仮り屋を出ると北側の敵陣に小手をかざしてしばらくじっと立っていた。 すでに陽は傾きかけて、若葉の緑が道をさえぎり、見える限りでは、またひっそりと静まったまま暮れかけてゆく気配だった。と、そこへ、鉄砲隊の指揮を命じてあった茶屋四郎次郎が、一人の百姓を伴って血相変えてやって来た。 「申し上げます。敵が、昨夜来より小松寺の北より二の宮、本庄村の北を経て、池ノ内から三河街道
の方へ続々南下中の由にござりまする」 |