〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/07 (金) 犬 山 思 案 (八)

勝入にとって夢の半ばを突き崩された感じであった。
(念が足りなかった!)
怒りの裏でその後悔も胸を噛んだ。
信長のこの地での成功は、土民との不思議な親和にあったと言ってよい。吉法師きちぽうし の少年時代から、彼は村から村をめぐり歩いた。村人たちと裸で相撲すもう もとったし、一緒に踊りの輪にも入った。そして、この地をがっしりと固め得たのが、その後の大をなす底の支えになっていた。
しかも價rつ勝入は、その信長と共に、影の形に添うような、つねに側にあって育った身ではなかったか・・・・
それだけに、
(おお、勝三郎さまがこの地に戻らっしゃたのじゃ!)
村々の古老から、そうなつか しがられる国主の夢を抱いて来たのだ。
ところが、今宵の放火はしの懐かしがられるはずの勝三郎を、村々を焼き払う 暴主に一変させてしまったのだ。
「呼べ! 呼べっ元助を」
言いながら勝入はやぐら をかけおりた。途中で何度か足をふみはずしそうになったのは、夢を打ち砕かれた打撃が、どのように大きかったかを証明してあまりある。
広庭へ出ると、味方は雑兵どもまで、異常な興奮でわき立っていた。
け、かがり火を、若大将が、敵の荒肝あらぎも をとりひしいで戻って来たのだ!」
「これで胸がすーつとしたの」
「見ろ、まだ空の色が少しもさめぬぞ」
こうした会話の中を、勝入は、眼をつりあげて通りぬけ、追手門の前にひらけた庭の幕舎ばくしゃ に入っていった。
「元助を呼べッ! 早く・・・・あやつ何のつもりでこのような、たわけたことをしてのけたのか」
床几しょうぎ にかけて、もう一度どなって、しかし、勝入はゾーッとした。
(いったいわしは元助をみなの前で呼びつけて、どうする気なのだろう)
ふと、それを想ったのだ。
武勇も器量も、人に劣らぬ元助を、斬らねばならぬというのだろうか・・・・?
「忠次を呼べ、忠次にせよ」
うかつに元助を呼んで、悔いても及ばぬ結果を招いてはと、あわてて家老の伊木忠次の名を呼んだが、そのときにはもう近侍に呼ばれて、元助の方が先に幔幕まんまく の中に入って来てしまった。
「父上!」
と、元助は立ちはだかったまま、勝入を直視して、
「お叱りは覚悟のうえで火を放ちました」
「な、なにっ、その方ではあるまい。家来けらい の中にその方のめい に服さぬ奴があったに違いあるまい。むろんそれはその方の責任じゃ。したが、大切な戦の前ゆえ、直接手を下して軍律を破った奴、わしがここで成敗する。出せ、そやつを!」
勝入が憤怒と狼狽でいきなり刀を、抜き放つと、元助は笑いもせずに、父の白刃をじろりと見やってその前にどっかと大きく胡坐あぐら をかいた。
「ほかに手を下した者はいない。斬られませ」
かがり火の焔に照らし出されたその横顔は、父の勝入以上に落ち着いた面魂だった。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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