〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/05 (水) 犬 山 思 案 (六)

「いつにても引っ返せる・・・・と、約束したら許してやろう」
勝入にしても別に手をこまぬいていた訳ではなく、敵を狼狽させてみたい心に変わりはなかった。
それにここで、元助も武蔵守も押えたのではあるいは士気にかかわるかも知れないとの危惧きぐ もあった。
(なにしろ家康側では、このような高札まで立てて挑戦して来ているのだから・・・・)
「お許しが出た! では、さっそくわれらも支度にかかろう」
元助も武蔵守も張り切って座を立とうとするので、
「くれぐれも油断するなよ。よくこの勝入の言葉を味おうての」
勝入はもう一度念をおして、森武蔵守の羽黒進出と、元助の遊撃とを許してやった。
その夜のことだった。秀吉のもとから、一柳ひとつやなぎ 末安すえやす が、秘命を奉じてやって来たのは・・・・
「筑前さまには、ご貴殿の犬山奪取を、でかした! でかした! とおど りあがってお喜びなされました」
「いや、それほど過賞されても困るが」
「これほどの大手柄を立てた勝入どのに、万一のことがあっては一大事ゆえ、二十日までには、必ず近畿を納め、大軍を引き連れて出て行こう。出て行けば戦は七日ほどで勝ってみせる。そのむね くれぐれも申し伝えよとの仰せでござりまする」
勝入は何度も続けざまにいなずいた。
ここで秀吉に、池田家の持つ実力を示しておくことは、子孫のためにも最も大切なことだと勝入は思っている。
もはや秀吉の天下は動くまい・・・・と、すれば、信雄亡き後の美濃、尾張から、あわよくば伊勢、三河と、その勢力を伸展させる絶好の機会なのだ。その夜のうちにすぐ立ち戻らなければならぬという末安を無理に城にとどめ、翌早暁船で岐阜へ渡すよう計ろうてから、わざわざ城の内外を見廻って、それから勝入は寝所に入った。
なかなか寝つかれなかった。万一夜襲などのことがあれば前線の羽黒に婿が控えているのだし、今のうちぐっすり眠っておかなければと思うのだが、勝入ほどの、百戦錬磨の老雄にもやはり感傷じみた感慨はあるものだった。
勝三郎の昔から信長についてあば れまわった尾張の土地であった。その信長が、田楽でんがく 狭間はざま今川いまがわ 義元よしもと を討ったときの興奮・・・・いや、信長が本能寺で討たれたと知ったときの狼狽・・・・
(── いったいこれはどうなるのか・・・・)
そう思って、とむらい 合戦では死ぬ気であった。
それが、秀吉と共に大勝を博して、いまは再び尾張まで戦旅の夢を結ぼうとしている。
しかもこんどは、勝てば尾張の太守であり得るのだ。
眠られぬままに、何度か寝返りを打っている間に、勝入は、ふと、城の庭で見張りの者の立ち騒ぐ声を耳にした。
(何ごとか起こったなッ)
パッと蒲団を蹴って高縁へ出て、ふーむと勝入は呻めいた。
南の空が真っ赤になっている。
火事だ・・・・
「誰ぞある。あの空の赤さは何ごとぞ」
勝入は高縁から庭に動く雑兵の人影に大声で問いかけた。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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