〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/05 (水) 犬 山 思 案 (四)

「父上、それは、いずれにて・・・・」
元助は半武装の勝入が眉根を寄せて読んでいる高札のわきに、自分の持って来たのを暴々あらあら しくほう り出した。
「これは町外れの川辺に立っていたのを鵜飼うかい の者が見つけて持って参ったのだ。それはどこに立ててあったぞ」
「これは、小牧山の近くの村で・・・・うぬっ、犬山の城下まで」
「怒るな」
と、勝入はおさえた。
「これはの、われらを怒らそうためじゃ。榊原康政という男は、なかなかの知恵者だと聞いている。怒って討って出るのを、どこぞに兵を伏せていた、手柄にしようという考えに違いない。何の、このような子供だましの高札など」
口では元助を押えながら、しかし勝入のひたい にも曲がりうねった癇筋が立っている。
(秀吉がこれを見たら・・・・)
と、彼にもその不安があるからだった。
「かたわらに控えている家老の伊木忠次が、
「これだけ書くのも容易たやす いことではござりませぬ。かようなものまで用意してあるうえは、よほど用心をいたさねばなるますまい」
「戦に用心はつきものじゃ。誰にも首は二つないからの。しかし、このようなものに気をくさ らせては相いならぬ。武蔵どのも、眼についたら、ただちに引き抜いて焼き払えと布令ふれ ておいて下され」
「武蔵守はしきりに汗を拭きながら、
「むろんのことで」
そう応えてからすぐに、
「地図を持て」 と、小姓に言った。
「今見て来た模様を書き加えておかねばならぬ。舅御、敵は小牧山を本陣として、あれから犬山を狙うつもりでござりまするぞ」
「やはり小牧か」
「それゆえ、われらもすぐに犬山と敵陣の間に進出しようかと存じます」
武蔵守が急きこんで、小姓の持って来た絵図を広げてゆくと、
「わしは一挙に、小牧山をこっちの手で占領せねば必ず悔いが残ると思う」
元助ははっきりと言い切って軍扇ぐんせん で小牧山を指した。
しかし勝入は答えない。答える代わりに首をかしげて、
「みんな若いぞ!」
とでも言いたげな表情だった。
「時遅るるほど敵陣は堅固になりましょう。今夜ただちに夜襲をお許し下さるよう」
「夜襲か・・・・」
勝入は手にしていた高札をはじめて側へおいて、
「木曾川を夜渡ったようなわけには行かぬぞ元助」
「それは心得ております。しかし一歩でも清洲に近づいておいて、筑前どのの到着を待つのが・・・・」
「わしは何度も家康の戦ぶりを見て来ている。姉川あねがわ でも長篠ながしの でもな。野戦になると、三河勢は、雑兵までが猛虎になるからの」
「では、こうして手をこまぬいていようというのですか。まだ筑前どのはなかなかご着到はなさるまいに・・・・」
元助に喰ってかかられて、急に勝入はきびしい顔になっていった。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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