〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/04 (火) 犬 山 思 案 (三)

その高札の最初には、
「── それ羽柴秀吉は野人やじん の子」
と、眼を射るように書いてある。
おそらく武蔵守は、その文字を見ただけで、この高札が、何であるかを直感したのに違いない。それで、いったん池田元助に渡してから、あわてて馬を寄せて来て、元助とともにそれを読んだ。

── それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒にすぎず。しかるに、いったん信長公の寵遇ちょうぐう をうけて将帥しょうすい にあげられ、大禄を みだすと、天よりも高く海よりも深きその大恩を忘却して、公の没後ついに君位の略奪をくわだ つのみか、亡君の子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。
その言語に絶した大逆無道を黙視するにあた わず、わが主君、みなもとの 家康は、信長公との旧交を思い信義を重んじて信雄公の微弱を助けんとして蹶起けっき せり。もしかの秀吉が、天人とともに許さぬ悪逆を憤り、義の重きを思うものあらば、父祖の名誉にかけて、この義軍に投じ、もって逆賊を討伐し、海内かいだい の人心に快せん・・・・
                   天正十二歳   榊原小平太康政

読み終わって、どちらもしばらく言葉を出さず、顔も見合さなかった。
馬前の走卒といわれたことはまだよいとして、 「天人ともに許さぬ逆賊」 に至っては、秀吉の激怒が想われて、うかつに話も出来なかったのだ。
「榊原康政めが・・・・」
しばらくして、武蔵守が馬を離すと、池田元助は、高札をくるりとかつ いで馬首をめぐらした。
「いずれへ行かれる元助どの」
「がまんならぬ。父に見せる!」
「見せたがよいと思われるか」
「これが筑前どのの耳に入ろうなら、犬山城占領の功も帳消し・・・・見せる! そしてすぐにも兵をすすめさせ、小牧山をわれらの手中に納めるのだ」
「元助どの」 が、そのときには元助はもう馬にひとむち あてて駆け出していた。
このような高札が立つようでは、敵の準備も進んでいる・・・・そう思うと一刻の猶予ゆうよ もできない想いであった。
「元助どの」
森武蔵守も、もう一度声をかけてそれから元助の後を追った。
(ここでは是が非でも武功を てねば・・・・)
そう思いあせっている自分が、勝入親子に作戦を決定され、それに従わなければならない破目になってはと、急いで帰城する気になったのだ。
まだ山頂の人々はいぜんとして、右に動き左に停まって下山の様子はない。おそらくここでも、実地についてしきりに作戦を練っているのであろう。武蔵守が駆け出したので、従う者もいっせいに馬を返した。そうなると敵も彼らを認めずにはいない。
土煙をあげて北方へ駆け出してゆく一隊の背後から、ダダーンと銃声が追いかけた。
しかし、そのときにはもう元助も武蔵守も射程しゃてい を離れていた。
城へ戻ってみると、ここでもすでに同じ文章の高札が持ち込まれ、父の勝入が渋い顔でそれ読んでいるところであった。
「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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