「元助どの、あれをご覧
ぜられよ」 「森武蔵守が声をかけたときには、池田元助もまた眼をこらして山頂を睨んでいた。 十五日の正午すぎで、陽春の陽はなだらかな山裾の緑を、まぶしいほどにかっきりと浮き上がらせている。 「敵もさるもの、油断はなりませぬぞ」 元助は応える代わりに強く舌打ちして癇性に唇を前歯で噛んだ。 {あの分では本陣をここへ進めるつもりに違いない。それゆえ舅御に、あれほど申したのだが・・・・」 「長可どの、鉄砲は!?」 「生憎
、物見のつもりゆえ」 「と、いって、いつまでもあのままにはさせてはおかぬ」 「と言われるが、当今、日本で一番運強いは筑前どのと家康どの、これは運比べになるやも知れぬ」 「運ならば、お父上も強かった。犬山城をあのようにやすやすと・・・・」 「長可どの・・・・」 「何かよい思案が浮かばれましたか」 「これは、このままには捨ておけぬ。こっちも犬山の前線へ拠点を作らねば大事になろう」 元助は早口にそう言ったあとで、 「父に相談する要はあるまい」 と、首をかしげた。 「相談とは?」 「一刻遅れると、それだけ相手の陣地は強まる。今夜すぐにこの近くの村々を焼き払おう」 「なに村々を・・・・」 と、武蔵守は息をつめて、 「秋の刈入れ前ならば、相手に食料を得さしめないためその要もあろうが、今ごろでは・・・・」 「いや、われらの手もすでにこの地に及ぶと見たら、土民は怖
れて敵方へ味方はすまい」 「と、仰せられるが、万一それが怨嗟
の因 となっては、筑前どののお考えにもとろうかと・・・・筑前どのは、民心の収攬
が第一じゃと仰せられ、すでに諸寺社へ、それぞれ寺社領の安堵など内々に触れさせてござるそうな」 元助はそれでまた黙った。 黙ってこんどは山頂から四方へしきりに眼を動かしている。 と、その眼に、また一つ、木々の緑を縫って来る味方の一騎が映じ出された。 「あれは後方を見張らせてあった梶村
与兵衛 じゃな。与兵衛の手にしている物は何であろうか。高札
のようじゃが・・・・」 「なに高札・・・・」 森武蔵守がいぶかしんで、その方へ馬首をめぐらしたとき、 「申し上げます!」 と、その一騎は、山上の人影に気づかぬ様子で大声をあげながら寄って来た。 「この先の村落で、村人たちが、大勢集まり、立ち騒いでおりますゆえ、近づいて見ましたところ、このような札が立っておりました」 「見せろ。何と書いてある」 武蔵守は手をのばしてそれを受け取り、 「や、や・・・・」 と、頓狂
な声をあげて、それを池田元助の方へ差し出した。 元助は一眼見るなり、また猛
った唸 りで眼を血走らせた。
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