〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/04 (火) 犬 山 思 案 (二)

「元助どの、あれをごろう ぜられよ」
「森武蔵守が声をかけたときには、池田元助もまた眼をこらして山頂を睨んでいた。
十五日の正午すぎで、陽春の陽はなだらかな山裾の緑を、まぶしいほどにかっきりと浮き上がらせている。
「敵もさるもの、油断はなりませぬぞ」
元助は応える代わりに強く舌打ちして癇性に唇を前歯で噛んだ。
{あの分では本陣をここへ進めるつもりに違いない。それゆえ舅御に、あれほど申したのだが・・・・」
「長可どの、鉄砲は!?」
生憎あいにく 、物見のつもりゆえ」
「と、いって、いつまでもあのままにはさせてはおかぬ」
「と言われるが、当今、日本で一番運強いは筑前どのと家康どの、これは運比べになるやも知れぬ」
「運ならば、お父上も強かった。犬山城をあのようにやすやすと・・・・」
「長可どの・・・・」
「何かよい思案が浮かばれましたか」
「これは、このままには捨ておけぬ。こっちも犬山の前線へ拠点を作らねば大事になろう」
元助は早口にそう言ったあとで、
「父に相談する要はあるまい」
と、首をかしげた。
「相談とは?」
「一刻遅れると、それだけ相手の陣地は強まる。今夜すぐにこの近くの村々を焼き払おう」
「なに村々を・・・・」
と、武蔵守は息をつめて、
「秋の刈入れ前ならば、相手に食料を得さしめないためその要もあろうが、今ごろでは・・・・」
「いや、われらの手もすでにこの地に及ぶと見たら、土民はおそ れて敵方へ味方はすまい」
「と、仰せられるが、万一それが怨嗟えんさもと となっては、筑前どののお考えにもとろうかと・・・・筑前どのは、民心の収攬しゅうらん が第一じゃと仰せられ、すでに諸寺社へ、それぞれ寺社領の安堵など内々に触れさせてござるそうな」
元助はそれでまた黙った。
黙ってこんどは山頂から四方へしきりに眼を動かしている。
と、その眼に、また一つ、木々の緑を縫って来る味方の一騎が映じ出された。
「あれは後方を見張らせてあった梶村かじむら 与兵衛よへえ じゃな。与兵衛の手にしている物は何であろうか。高札こうさつ のようじゃが・・・・」
「なに高札・・・・」
森武蔵守がいぶかしんで、その方へ馬首をめぐらしたとき、
「申し上げます!」 と、その一騎は、山上の人影に気づかぬ様子で大声をあげながら寄って来た。
「この先の村落で、村人たちが、大勢集まり、立ち騒いでおりますゆえ、近づいて見ましたところ、このような札が立っておりました」
「見せろ。何と書いてある」
武蔵守は手をのばしてそれを受け取り、
「や、や・・・・」
と、頓狂とんきょう な声をあげて、それを池田元助の方へ差し出した。
元助は一眼見るなり、またたけ ったうな りで眼を血走らせた。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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