〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/03 (月) 硬 骨 軟 骨 (十)

碁盤を取れと言われて、一瞬だったが、渡辺金内の表情にサッとあやしい殺気が走った。
自分の主人をタコと言われ、お家も売りかねないと言われては、金内とても同じ三河の血をひく武士だ。相手と刺し違えても・・・・と、思ったのかも知れない。
その様子をジロリと見やって作左<はまたずけずけと言った。
「おぬしは、わしのせがれ に、わざわざ負けてくれたそうじゃが、この年寄りに、そのようないたわ りはいらぬぞ、早く碁盤を出さっしゃい」
金内は、次の瞬間、つと立って碁盤を運んだ。その動作に、まだ蒼白あおじろ い怒りとの闘いがまざまざと感じられる。
二人の間へぴたりと盤面を置くと、
「ご老人は白でござりまするか、黒でござりまするか」
容赦ようしゃ はせぬというとが りが口調に出てしまった。
「フン」 と、作左はあざ笑った。どこまでも意地悪く相手を試すのが、今ではこの年寄りの趣味になってしまったような感じだった。
「おぬし先ず好きなほうをとれ。わしの碁は、相手によって白になったり黒になったりする碁ではない」
金内はまたぴくりと肩を動かしたが、しかしそこで彼のはら は決まったらしい。
んだ訊くことが残っている。腹を立ててよい時ではない・・・・
「では、黒をいただきまする」
「あたりまえのことよ。さ、おろしなされ石を」
それにしても何という念の入った毒舌であろうか。 (よし勝ってやろう) と、金内は思った。そして、きびしい音をたてて一もく おくと、
「するとご老人は反対されましたが、お館さまはわれらが主人でなければならぬと仰せられたのでござりまするな」
「そうだ。殿もなかなか偏屈者へんくつもの じゃからの」
作左は無造作に石を置きながら、
「殿が承知で、数正が行きたいと言うのじゃ。仕方がなかろう」
「それだけをうけたまわれば、主人の覚悟がござりましょう」
「その覚悟じゃが・・・・・並みの覚悟ではならぬと申せ数正に」
「それは主人の肚にあること、仰せまでもござりますまい」
「なに、数正の肚にある。わしはわしの肚にいる虫のことを申したのじゃ。いったんこうと言い出したからには、わしは最後まで、数正の悪口を言いつづけるぞ。よいか、それ数正があやしいぞ。やはり』数正は猿めに買収されて来る¥おったとな・・・・」
金内はふと顔をあげて老人を見直した。
作左衛門の言葉はひどく無造作だったが、碁は性格むき出しの喧嘩碁になって来ている。
(これは何か、言外に、意味があるのではなかろうか・・・・?)
「人間はな金内・・・・」
「はいッ」
「臍曲がりも徹底すれば天下の宝じゃ。わしは、数正が家中におれなくなるまで、一歩も悪口の手はゆるめぬぞ。そして、数正が逃げ出したらむろんわしも、ぬくぬくとは禄は喰まぬ。それでは臍競べにはならぬ。他人を陥れたことになる。他人を陥れては大きな恥じゃ」
そう言っていきなり右隅を切って来た作左の石のはげしさに、金内は思わずまた息をのんだ。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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