作左は改めて相手を見ようともしなかった。はだけた胸をパタパタと煽
ぎながら、 「この作左ぬは、そうした悪い虫があっての、この虫は、人が右といえば左を向く、左といえば右を向く。それゆえ、岡崎へ立ち戻ったら悪く思われぬようにとよく数正に申してくれ」 「恐れながら・・・・」 と、金内はまばたきもせずに、 「こなた様がそう言われたとき、お館さまは・・・・何と仰せられましたので」 「おお、わしが、数正の名を出したら殿は膝を叩いてそちもそうか、わしも数正を遣
わす気であったと先に申された」 「するとお館さまは、ご承知下されましたので」 「はやまるな」 と、作左はまた無愛想にわきを向いた。 「殿がそう仰せられたゆえ、わしの虫が、ギクリと臍を曲げたのじゃ」 「な・・・・なぜでござりましょう」 「なぜかわしに分るほどなら困りはせぬ。本田作左衛門とはそうした男じゃ。そこでわしは、わしが殿のお前にやって来たのは、数正を使いにやってはならぬと申しに出て来たのだろ言うてしもうたわ」 「そんな・・・・妙なことが・・・・」 「それがあるのだ!
この作左には・・・・殿が、数正では心もとないと言えば、いや、あれでなければならぬと言ったであろう。が、殿が、あれをと仰せられたゆえ、それはならぬと言うた」 「・・・・」 「分るであろう。こらが作左の虫じゃ。殿はなぜならぬ、なぜ不賛成じゃと問いかけられた。そこでわしはこう答えた。徳川の家中でわしは第一番の硬骨者だが、数正はタコじゃと申した。家中の一番の軟骨で、方々へ吸いつこうとばかりしている。それゆえ猿めがもとへ使者にやるなど思いもよらぬと言うてしもうた」 渡辺金内の額
に、ぐっと怒りの血管がうきあがった。しかし彼はそこで怒気を爆発はさせなかった。 「さようでござりまするか。して、ご老人は、心の中でも、わが主人をそのようなお方と思われてござりましょうか」 「いや、さほどではない。これは虫の仕業
ゆえなあ。虫はそのあとで、またこう言うたわ。数正を使者に遣わしてご覧
じろ。必ず猿めに買収されて戻って来る。うっかりするとお家もともに売りかねまい。いや、さほででなくとも、おそらく長松丸さまを人質に差し出そうなどと・・・・とんだ弱音を吹いて、足
もとを見られて戻るゆえ、この作左は反対すると申して来た。虫の勢いでな」 金内の膝の両手はいつか固く拳
になって小さくぶるぶる震えだしている。 「とにかく・・・・」 と作左はまた言葉をつづけた。 「わしは反対じゃが、殿は遣わすお気持ちらしい。それゆえ、わしのこなたに申したとおりを戻って数正に告げてくれ。そして、自分で出て来て直接殿に頼まずとも、こんどはお召しが参るであろうとな・・・・まさか、殿と喧嘩もならぬ。わしはあのような軟骨ではと思うても、殿が命じるのならば、ただ毒づいているだけのことよ。今日はもう遅い。明早朝に発ってゆくがよい。そうそう、こなたは、碁を打つそうじゃの。その碁盤をとってくれ。飯までに一局囲もう」 そう言うと、作左は無遠慮に、震えている相手へあこをしゃくった。
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