〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/10/02 (日) 硬 骨 軟 骨 (八)

作左は、居間へとおると、
於仙おせん 」 と、わが子の仙千代を呼んで、
「数正が使いの者は何をしている?」
と、訊ねながらはかま を脱ぎ捨てた。
これは遅く産まれて、数正の子供同様、まだ前髪を落としたばかりの嫡子であった。
「はい、手前と を打っておりました」
「碁は強いのか、渡辺金内は」
「はい、一度勝つと次には負け、負けると次には勝ちまする」
作左 は苦笑して、
「それは、その方が弱すぎるからじゃ。五番はそのまま座敷にあるか」
「はい、一刻に四、五番勝負がつきますので、飽きてそのまま床の間に押しやってありますが・・・・」
「どうだ途中で待ったというか金内は」
「はい、勝ときには一度も言わず、負けるときには待ったを二度三度いたしまする」
「ふーん。根性の据わっている男と見える。考えて待ったをしながら負けるのは苦しいものだ」
「では、考えて負けたのですか。それがしに」
「知れたことよ、その方などは、勝手も分らず負けても分らぬ。いくさ だったら大変なことになろうぞ。わが首を探さねばならなくなるわ・・・・」
そい言うと作左 は血相の変わっている仙千代を好もしそうに見やって、
「嘘じゃ。戦場と碁は違う。碁などのあまり強い奴に、戦の上手じょうず な者はない」
そう言い直して部屋を出かかり、また、
「於仙──」 と、わが子をふり返った。
「その方も、もし忠義比べ、我慢比べを、この父が命じたら、どんなに苦しくともやるであろうな」
仙千代はむっとした表情のまま、
「それがしは母上の子です」
と、答えた。
へそ 曲がりめ。うぬは、この作左 より母の方が辛抱しんぼう 強いと思うておる。まあよい。母の子ならばあとへは退くまい」
そのまま待たせてある質素な八畳の間の座敷の前へ歩を運んで、
「エヘン!」 と、一つ咳払いしてからふすま を開けた。
「これはお戻りなされませ」
石川数正の使者渡辺金内は、まだ三十がらみの、いかにも無表情な男であったが、丸いひざ を揃え直して挨拶すると、
「お骨を折らせまする」
と小さく言い添えた。
「骨など折らぬ」
「は?」
「骨などは、わざわざ折らぬと申したのだ」
相手は作左 の気持ちをはかりかねて、そっと首を傾げてゆく。碁で負ける手を考える時の顔がこれであろうと作左 は思った。
「さて、あれこれ考えたが、数正はわるい事をわしに頼んだわ」
「何とおっしゃります。わるい事を」
「さよう。わしは始め、こなたに言われたとおり、こんどの使者、石川数正をお遣わし下されと言う気であった。御前ごぜん へまかり出るまではな」
「なるほど・・・・」
「ところが御前へ出てみると、何としても思うことが口に出ぬ。それで、数正を使者にやる儀は、この作左 が大反対じゃと言うてしもうた。困ったものよのう、わしの口も・・・・」
相手は一瞬、ぎくりとし、それから射抜くような眼になり、じっと作左 を見つめだした。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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