作左衛門は不意にポロポロと涙をこぼし、その涙を太い指尖
で、畳の上へごそりごそりとこすりつけた。 家康の人選と、彼の考えはぴたりと一つに合っていたのだ。 このうえは何も言う事はないはずなのに、たった一つだけ、まだ言いたいのは老いの愚痴
であろうか。 「殿もだんだん大身
になられて、家臣の数も多くなったが、筑前がもとへ使いさせる者はたった一人・・・・この事をお忘れなさるな」 「分っておるわ」 と、家康も胸が詰まって様子でわきを向いた。 「こんどのことは三方ヶ原以来の、わが家の大事じゃ」 「それをうかごうたら、この作左に、もう一つ頼みがある。殿、いきき入れ下され」 「誰が為の頼みじゃそれは」 「仏心深い数正とその母、そのばばに代わって頼みたいのじゃ殿に」 「なに、数正に代わってじゃと・・・・」 「はいッ。もはや一向宗
の者どもも騒ぎを起こす気遣いはない。三河での念仏道場の再興を、数正が心がけに免じてお許しなされ。きっと良い実
を結びましょうぞ」 家康は、それにはすぐに答えなかった。答えなかったが、さして反対の様子もなく、 「作左、数正はおぬしの家へ来ているのか」 と、軽く訊
いた。 「数正自身ではない」 「まさか老婆がやって来たわけでもあるまいの」 作左は首を振った。 「数正が、そのような大事を肉親に告げるものか。使いに来たのは、数正が家のおとな、渡辺
金内 じゃ」 「渡辺金内・・・・」 「いや、さすが数正、よい家来を持っておる。金内ばかりではない。佐野
金 右衛
門 、本田
七 兵衛
、村越 伝七
、中島 作
右衛 門
、伴 三
右衛 門
、荒川 惣
左 と、いずれも数正が分別の深さを見習うて、土呂
以来水も洩らさぬ心の結ばれ・・・・じゃが、その背後には、蓮如
上人 建立
の本宗 寺
の信仰が、大きな背景になってござる」 「分っている」 と家康はかたうなずいた。 「分っているゆえ渡辺金内にそう申せ。早々
に数正を浜松へ寄こすよう。それからこれはわしの内意じゃと洩らしてやれ、念仏道場のこと、家康は心にとめ置くぞと」 「ありがたや! さすがに殿・・・・」 そう言うと、作左の顔がまたゆがんだ。こんどもポトリと涙は落ちたが、作左はそれを見なかった。見る代わりにぐっと眼をつむって肩をふるわせ、それからのっそりと立ち上がった。 「では、早急に、数正が浜松へ来るよう計らいまする。ご免なされませ」 作左はそのまま廊下へ出ると、ぐっと腰を伸ばすようにしてつぶやいた。 「やれやれ、飛んだところで、数正めと根性比べになって来たわい」 その言葉の意味はおそらく誰にも分るまい。今分らぬだけではなく、永久に分らぬままに消えてゆく、歴史の裏の裏の秘事になろう。 (それでよいのだ・・・・) と、作左は思う。人間のほんとうの根性など神仏以外に誰が知ろう。 (いや時にはその神仏も分るかどうかのう・・・・) 作左はまっすぐに大玄関へ歩いて行く・・・・
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