〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/27 (火) 次 に 吹 く 風 (九)

「いいえ、ずるくはありません!」
勝千代はここもらしく首を振った。
「いま、どう答えようかと考えているところです」
「そうか。ではもう少し考えてみるがよい。兄は違ってというのじゃな。違ったと言えば、ほかに違わぬ答えがなければならぬ。これもよく考えて次の答えを聞かせて貰おう」
数正はそこで、扇子せんす を開いて、ゆっくりと胸へ風を入れだした。
「分りません!」
しばらくして勝千代が言った。
「兄上と同じ、間違うていた・・・・父上は、誰がどのような大恩を下されても、やはりお館さまのお側は離れません・・・・その事は分っているが、何ゆえなのか分りません」
「よし、於勝の答えは出た。康長は?」
言われて兄はそっと額の汗を拭いて、また、天井てんじょうにら みだした。
「分っているのだが、言われぬのじゃ」
「ほう、それは 都合つごう な口じゃの。そのような口は うてしまえ」
「それが・・・・武士の道だからでございましょう。次に大恩を与える人が現れても、以前の恩は消えませぬ。それゆえ・・・・恩を返すか、それとも節を守ってゆくか・・・・」
「康長」
「はいッ」
「では、大きな手柄を立てて以前の恩を返せば、わしは他所よそ へ行ってもよいかの」
「さあ・・・・?」
「行く父か行かぬ父か。それを先に考えてみたらよい」
「うーむ。やっぱり行く父上ではござりませぬ」
「よしよし、そのとおりじゃ。さ、そこでもう一段と考えよ。何ゆえ行かぬかの。父は・・・・」
康長は問い詰められて、
「参りました。分りませぬ。教えて下され」
「ハハ・・・・、それでおよそのその方たちの思案のほども分った。ばば様の仏の教えはまだまだ分っておらぬわい」
兄弟はまた顔見合して、 邪気じゃき小鬢こびん いていった。
「よいかの。わしはお館さまが、いつのころからか、仏の道をまっすぐに進み出されたゆえ、たとえどのようにご無理を仰せられようと、またひどい仕打ちに合おうと、決して離れはせぬのじゃぞ」
「仏の道・・・・」
「そうじゃ。お館さまは、はじめは勇ましい武将でおわした。それが中ごろから、考え深い武将になられ、近ごろでは仏の道を進むお方になられたのじゃ。よいかな。仏の道は、人を斬ることではない。戦をすることではない。一人でも多く生かすこと・・・・一人でも多く育てること。強いばかりが武将ではない。そこの道理をきわめられたゆえ、わしは喜んでお館さまについて行けるのじゃ」
弟の勝千代は、また悪戯いたずら らしく首を傾げて考えていたが、
「お父上、いったい、お父上は、いま、何をなさろうと言うのですか。何の必要があって、そのようなことをきかせるのですか。勝千代にはそれが分らぬ」
彼は仏の道などよりも、それを言い出した父の方にはるかに興味を覚えているのだった。
「たわけめ、話をそらすな」
と、数正は苦笑した。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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