石川数正には、茶屋四郎次郎の言おうとしている事は分りすぎるほどに分っていた。 というのは、同じ問題で、すでに数正はこの正月、家康と争ったことがあるからだった。 家康は、何を考えているのか、しきりに、清洲
の織田 信雄
と文通を重ねている。 それが数正には、何となく不安であった。 信雄が信孝のように柴田や滝川
と結ばず、しきりに家康を頼って来るのは、その内心に、信孝と同じように、秀吉への反感があるからに違いなかった。 信雄は、家康がまだ北条
氏と戦っているときから、しきりに、甲斐の家康の陣へ手紙や贈り物を届けて来た。 近畿
の事情が切迫 しているから、早く北条氏直
と平和をととのえ、軍を返して、われらに一臂
の力を藉 してくれというのであった。 始め家康は、それを巧みに利用して、北条氏との間を信雄にあっせんさせるつもりらしかったが、それが数正には危ない橋に見えてならなかった。柴田勝家は、信孝と結んだことによって自ら滅亡を招いていった。家康が信雄と接近することは、やがて秀吉の眼を光らせずにはおくまい。 「──清洲
とのご交際は、お心なさるがよろしゅうござりましょう。痛くもない腹をさぐられるのは詰まらぬことでござりまする」 いつもは、笑ってうなずく家康が、そのときには、あらわに不快な色を見せてわきを向いた。 そればかりか、去年の暮れ、秀吉がいよいよ岐阜城へ兵を出したというときに、信雄から家康に是非とも会見したいと申し入れて来た。 家康はあっさりこれを承諾して、この正月、岡崎の城までわざわざ信雄を招いて会議した。 しかもその席へは重臣たちも近づけず、何を話し合ったのか今もって分らない。そのあとで、二人は馬を並べて吉良
まで鷹狩 に行ったりした。正月の二十日のことである。 鷹野から戻って来ると数正は、ずけずけと家康に言った。 「──
お館、獲物 はござりましたかな」 「──
おう、兎 と雉
が少々であった」 「── そのような獲物のことではござりませぬ」 「── なに」 家康は、そのときは笑って数正をたしなめた。 「──
故右府さまとわれらは、並の間柄ではない。失意の信雄どのを慰めた・・・・別に獲物はなくともよかろうが」 「── 獲物がなくばおよしなされませ。詰まらぬことでござりまする」 「──
詰まらぬこと?」 「── はい、兎や雉と、大事な家臣の生命
を取替えなければならぬような事になっては詰まらぬことでござりまする」 「── 黙れ数正、そちは、わしに指図する気か」 「── はい、時によってはいたしまする」 「──
口を慎め。わしにはわしの考えがある。二度と申すなッ」 同じ城に住んでいたら、その後、きっと家康はその 「考え ──」 を数正に分らせたに違いなかったが、それから間もなく浜松へ戻って行ったので、そのままになっている。 したがって、秀吉のこれからの出方を案じている点では、数正は茶屋四郎次郎に劣るものではなかった・・・・ 彼はただそれを口にするのをきびしく自戒しているのだ。 |