〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/27 (火) 次 に 吹 く 風 (六)

「ご城代さま、都の水を呑んで口巧者になったとは心外なお言葉でござりまする」
茶屋はまたひとつひざ すすめて、
「私は、いまにして両雄並び立たずの古語を思わずにはおれませぬ。筑前どのの力とご気性、この二つをよくよくきわ めてかからぬと、徳川家にとって、これは、三方みかたはら 以来の大難となるやも計られませぬ」
「と言われると、筑前どのの方から、合戦かっせんいど まれると言わっしゃるのじゃな」
数正はいぜん視線をそらしたままで言った。
「たとえ筑前どのが合戦を挑まれても、お館さまは応じられまい」
「いいえ、合戦を挑むかわりに、臣礼しんれい をとれと いて参るに違いござりませぬ。今ではもはや、丹羽長秀どのも、細川ほそかわ 藤孝ふじたか どのも、みな筑前どのの家臣にござりまする」
「すると、お身の案ずるのは、お館さまが、筑前どのの家来けらい にはなるまいと言われるのか」
「御意にござりまする。お館さまはとにかく、家来衆が承知すまい。それゆえ、ここで、尋常じんじょう ならぬ用意の布石ふせき が必要だと申し上げておりますので」
「ハハ・・・・」
数正はまた笑った。
「よう分りました。だがお案じなさるな。お館はそのようなお方ではない。わしも、お身の言葉はきも にきざんで置こう。また、お館の命があれば使いもしよう。それゆえ、今宵こよい はゆっくりとここで休んで一刻も早よう浜松へゆかれるがよい」
茶屋四郎次郎は、まだ、何か言い足りない気がして不服だったが、これ以上の言葉ははばかられた。
(果たして、これで、この人は分ってくれたのだろうか・・・・?)
忌憚きたん なく言えば頼りなかった。眼の色変えて、もっと自分に質問の矢を向けて来るものと期待していた。
「──よし、それならば、わしから願うて使者に参ろう。何の筑前とてただの人ではないか」
そうした言葉を期待して、そうなったら、あの点、この点と、秀吉の性癖をもっと細かく話しておこうと思ったのだ。
しかし、数正は少しも真剣に乗って来ない。この人もやはり秀吉を、軽く見すぎているのではあるまいかと思うと、やがて運ばれて来た膳部も酒も美味うま くなかった
数正は、以前と人が変わったように見えた。柔らかくなったが、肝腎かんじん気魄きはく がどこかへ消え失せてしまったような気がする。
家康の所領が四ヵ国に及んだので、もはや大名の地位は約束されたも同じだった。それだけに鋭気がにぶったのか、それとも尊大になったのか・・・・?
その夜は、本丸の一室に手代とともに宿泊させてくれたが、翌朝、城を発つ時には、数正はもう顔を見せなかった。
それも何となく四郎次郎には、裏切られたような淋しさだった。
(まさか、この城の城代で満足しきってしまったわけでもあるまいが・・・・)
茶屋が出発すると、数正は、さり気ない様子でわが子康長やすなが に言った。
「松本四郎次郎は出て行ったか。あれも少々口数が多すぎてのう」

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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