〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/25 (日) 次 に 吹 く 風 (三)

茶屋四郎次郎は祐筆と若侍が退出して行くまでに敷居ぎわで神妙に頭を下げていた。
家康よりも四ツ年長の石川数正は、このときすでに四十六歳になっている。
十歳で家康のそば 小姓こしょう にあげられ、長い間ともに人質暮らしを続けて来て、家康の長子信康を三河へ迎え取るときにはわざわざ同じ馬に乗せて引き取ってきた功臣だった。
それだけに三河武士の中では圭角けいかく がとれ、風貌にも円熟した重厚さがにじみ出ている。
「松本氏、北国のことは、とうとうきまりがついたようでござるな」
「はい、万事が筑前どのの、方寸ほうすん のとおりになってゆきました」
「さ、ずっとこれへ、誰も聞いている者はない。こなたの考えを聞かせて下され。北国は誰に任されましたかの、筑前どのは・・・・」
茶屋四郎次郎は、ゆっくりと数正の前に進んで、もう一度噴出してくる汗を拭った。
「実は、お館さまに、とりあえずと思うて、まかり出ましたが、お館さまには浜松にご在城でござりましょうなあ」
「されば、もはや甲斐かい からお戻りなされているはずでござる。あの国の国制を定められてな、しかし、またこの秋には甲斐から駿河と、ご自分で廻られるおつもりらしいが」
「ご熱心なことで」
「まことに、われらもつくずく感嘆いたしております。筑前どのが城攻めなされている間に、こっちはすっかり地固めせねばと仰せられてなあ」
「その事でござりまする。地固めについては、この茶屋など、何の不安も覚えませぬが、それから先の事がちと・・・・」
「と、言われると、筑前どのに、何か変わった気配でもあると言わっしゃるか」
「いいえ北国のことはこんど、越前えちぜん加賀かが のうち、能美のみ江沼えぬま の二郡をさいて丹羽にわ 長秀ながひで に下され、本領の若狭わかさ と共に治めさせ、加賀のいち石川いしかわ河北かほく の二郡は前田まえだ 利家としひで に能登と共に与えられ・・・・」
「待って下され。越前は丹羽長秀に」
「はい、加賀、能登はおよそ前田父子でござりまする。父利家は能登の七尾ななお から金沢かなざわ へ移って築城いたしましょう。また利長としなが府中ふちゅう より加賀の松任まつとう へ、七尾には前田安勝やすかつ長連竜ちょうつらたつ などを置き、佐々さっさ 成政なりまさ越中えっちゅう富山とやま へおいて上杉うえすぎ 家の交渉に当たらせておりまする」
「ふーん。ひどく前田領は多くなった。それで佐久間さくま 玄蕃げんば ほどうなりましたな。戦の最中に行衛ゆくえ 知れずになったと聞いたが・・・・」
「それが、途中で捕まりました。玄蕃も権六郎ごんろくろう もな・・・・・はじめはしきりに降伏をすすめたらしいが、玄蕃は頑強にこれを突っぱね、わざわざ京へ連行されて引き廻しのうえ、首をはねられました」
「ふーん。それで柴田しばた の一族は根絶したか」
「みなみな意地にこだわって、少しく思慮が足らなんだ・・・・と、より申しようがござりませぬ」
「して、このあとは、どう動くとご覧なさる」
「これで信孝のぶたか さまも終わり・・・・この次は、大坂築城ではあるまいかと存知まする。天下は、この秀吉が握ったぞと、故右府うふ さまの安土あづち の築城、あれになぞらて、天下の諸侯に賦課ふか を命ずる・・・・となりますると、ご当家にもかかわりのないことではござりませぬぞ」
四郎次郎はそう言ってじっと数正を見つめてゆく・・・・

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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