〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/26 (月) 次 に 吹 く 風 (四)

数正はゆっくりとうなずいた。
戦が済めば、徳川家からもいずれ戦勝祝いの使者を出さなければなるまい。
(その使者を誰にするのか?)
それは茶屋だけでなく、数正にとっても関心のあることであった。
「ご城代さま」 茶屋四郎次郎は、ちょっとあたりを見廻すようにして、
「今度のお使い、誰がよろしゅうござりましょうかな。筑前どののもとへ遣わされるお方は?」
「使いは誰でもよいはずじゃが・・・・」
と、数正は相手の視線をそらすようにして、
「そのあとでうるさい事になろうも知れぬの」
「そのあとで・・・・?」
「さよう、筑前どのは、必ず何か口実を設けてお館に、自分のもとまで伺候するよう計らえと、その使者に仰せられようでな」
「そのことでござりまする」
と、こんどは茶屋が身を乗り出した。彼の案じているのも、それから先の事であった。
「万一、ご使者が、それが止むないことと考えて、お けして戻られたらどうなりましょうかご城代」
数正は、ゆるく首を左右に振った。
「お館はとにかく、老臣どもが承知すまい。使者は戻って切腹ものじゃな」
「切腹と分って行く方がござりますまい」
「まずないであろうの」
「というて、わざわざ筑前どののもとまでお祝いにおもむき、向うが来いと言われるのに、その儀は・・・・と、お断りもできかねましょうかと」
「それはできる」
と、数正は、陽焼けしたほお に皮肉な笑みを浮かべて、
「それはできるが、にべもなく断って来るほどなら、相手の感情をそこなう点で、始からお祝いなどに行かぬほうがよかったという結果になろうの」
「そうなったのでは話になりませぬが・・・・」
茶屋も思わず眉を寄せて苦笑した。
「相手はそれで、捨ておくお方ではござりませぬので・・・・」
「されば、その点でのう・・・・」
「ご城代さま!」
「妙案があるかな松本氏に」
「いいえ、妙案などあろうはずはございませね。が、これは、お祝いの使者も出さずに済むことではないように考えまするので・・・・」
「わしもそれは、同じことじゃ。が、さて、誰が使者に行くかとなると・・・・」
「この茶屋は、なみの者では済まぬ、お館さまにもし、誰がよかろうかと訊ねられてたときには・・・・」
そこまで言うと数正はギョロリと鋭く四郎次郎を見返して、
「何者の名を挙げてお答えなさる気じゃ」
「はい・・・・」 ちょっと息をつめて右手を出して指をくり、
井伊いい どの、榊原さかきばら どのでは、まだ若すぎて、筑前どのがご不満でござりましょうし」
「それで・・・・」
本多ほんだ どのでは、ちとはげしすぎまするし・・・・酒井、大久保さまでは、この前の信康さまのこともあるゆえ、お引き請けなされますまいし」
「私は、やはり、あなた様と、本多作左さくざ どのの名よりほかに、挙げるお方はござりませぬ」
四郎次郎はそこでまた、相手のはら すか そうとしてじっと息をこらしていた。

「徳川家康 (十) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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