(姫たちと共に落ちていったお市の方がいるはずはない) いるはずのないお市の方の姿を見たので勝家は仮睡の夢か、幻
を見たのだと思ったのだ。 「ご気分がすぐれませぬか。殿・・・・」 また問いかけられて勝家はカッと大きな眼を剥
いた。自分の心の弱りを見抜いて、狐狸
のたぐいが・・・・と思ったのだ。 「まあ、こわいお顔をなされまする」 「こなたは・・・・こなたは・・・・まこと、お方か」 「は・・・・はい」 「お方は姫たちと共に落ちたはず。それがどうしてこの城に居残っている。もはや四方の城門には柵
を打ちつけよと命じたのに」 「お許しなされて下さりませ。わらわは、初めから城に残ると申し上げました」 勝家は狼狽してあたりを見た。 大広間に二基の燭台で、四隅へものの怪
じみた薄闇が陰気なかげをぼかしている。うしろにいる太刀持ちの小姓の影が床の上で頼りなげに揺れていた。その薄暗さの中でお市の方の姿だけがはっきりと浮いて見える。活きいきと自分を見上げている眸
にも、いつもは権高いと感じる鼻すじへも、小さく締まった娘のような花唇
へもふしぎな温かさがにじんでいる。 一瞬勝家は、早鐘
を打つように昴 まりだした胸の動悸
を意識して、全身がいちどにカーッと燃えあがった。 歓喜! そうだ。それは、彼の生涯で経験したことのない狼狽と歓喜であった。あるいは狂気といった方が当たっているのかも知れない。八方四千の毛穴がいちどに、何かを叫び出したいような想いであった。 「お方!」 「はい」 「こなたは城に残って・・・・なぜ、この勝家の命にそむいて・・・・」 言い出すと、言葉は意志に逆行するので、いよいよ身内が熱くなった。 「お許しなされて下さりませ」 「許すというて・・・・男とはなあ」 「は・・・・はい」 「口には出して言い得ることと言い得ぬことがある・・・・今となっては、や・・・・やむを得ぬことながら、こなた、この勝家と共に死ぬ気か」 「お供いたしとう存じます」 「こなたは・・・・こなたは・・・・」 勝家は口を衝くわが言葉と、感情のずれに引き廻されて、大きく唇をゆがめたままポロポロ涙を落とした。 「こなたは、気がつよすぎる。娘達の前途を見てやりたいと思わぬのか」 「はい・・・・見てやりとう存じまするが、しょせん思うままにならぬ世の中・・・・」 「それで、わしの・・・・もはや、きわまった、わしの前途を見届けるのか」 「お許しなされて下さりませ。わらわは柴田勝家が妻でこの世を終わりとうござりまする」 勝家は、また何か言おうとした。しかし唇が大きくわななくだけで言葉にはならなかった。 「よ・・・・よしッ、では、その夕餉をこれへ」 勝家は、うしろに控えた小姓の眼と、前にいるお市の方の眼をおそれて、むずと一つ握り飯をつかんでいった。 「お方・・・・これは、こなた自身で握ったな」 「はい、何か移り香でも?」 「おう、匂いがする。こなたの手の匂いが・・・・白いこなたの・・・・よい匂いが・・・・」
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