〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/21 (水) 有 情 無 情 (六)

廊下にあわただしい跫音あしおと がして、
台所だいどころ さまに申し上げまする」
と、草ずり鳴らして駆けてきた者がある。
勝家とともに危うく戦場を逃れて城に戻って来た小島こじま 若狭わかさ であった。
若狭は無遠慮に、お市の方の居間のふすま を開いて、いきなりその場へ片膝ついた。
期せずして、母子の眼はいっせいにその方へそそがれる。
「御台所さまに申し上げまする」
若狭はもう一度叫ぶように言って、
「殿のお言いつけでござりますれば、姫たちと共に、ただちに城を出られまするよう、ご用意のほど願わしゅう存知まする」
「若狭どの、すると西南に見えるあの煙は・・・・」
「敵の放火にござりまするが、まだお案じなさることはござりませぬ。ただ今、前田どののもとより使者が参り、落ちさせられるおん方あらば、乾門いぬいもん より放たれよ。されば必ず門外に待ち受けてご守護申さんとのご口上、決戦は今夜半から明日に及ぶと存じまするゆえ、日の暮れには、ご脱出願わねばなりませぬ。そのおつもりでご用意のほどを・・・・」
言い捨ててすぐさま立とうとする若狭を、お市の方はあわてて呼び止めた。
「若狭どの、もう一つお聞おきたい事がござりまする」
「はッ、何なりと」
「この城に、わらわたちのほかにも落とさねばならぬ者があるはず、それをここへお連れ下さるまいか」
「御台所さまのほかに・・・・はて、どなたでござりましょう」
「前田どのの姫が質になっているはず、その姫に、わが家の殿の幼い姫たちも、この場へお連れ下さるよう、みなで共に落ちとう存じまする」
若狭はハッとしたようにお市の方を見直した。
彼は浅井の姫たち三人は落ちても、お市の方は城を捨てまいと、勝家から聞かされて来ていたのだ。
それだけにお市の方の言葉は、以外でもあり、またうなずけもするのであった。
(やはり遁がれるお気になられた・・・・)
その代わり、勝家の妾腹しょうふく の姫二人勝姫かつひめ政姫まさひめ をも連れてゆく気になったらしい・・・・
この問題は微妙であった。
万一お市の方が、この城と運命を共にする気であったら、勝家はわが子を落とすとは思えなかった。
(主君の妹も共に死ぬのだ。何のわが子だけ・・・・)
そんなかたく なさが勝家なのだ。したがって、お市の方が落ちると言えば、二人の姫も落としてやるかも知れなかった。
(そうか、そうだったのか。それでよいのだ・・・・)
若狭はホッとして、
委細いさい 承知、若狭が、必ずここへお伴ないいたしまする」
「頼みましたぞ」
浴びせるように言って、お市の方はお市の方でホッとしていた。
勝家が自分を助けようとしていることが、とっさの場合に茶々姫を説き伏せるよい思案になったのだ。
「茶々どの、お聞きのとおり、わらわも落ちる。修理どのの姫たちも、前田の姫も共に落ちる・・・・さ、こなたたちも支度をなされ」
こんどは遠くではじけるような鉄砲の音がしだした。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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