〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part \』 〜 〜

2011/09/21 (水) 有 情 無 情 (四)

お市の方は、さっきからほり をへだてた向うの大路を見おろしていた。
冬ははげしく白魔はくま の荒れ狂う町であったが、今は深い緑に包まれ、足羽あすわ 川原から流れて来る風が爽やかなりょう をはこんだ。
今朝早くから、三々五々と城へ入って来た人影もようやく途絶とだ えて、白い道に時々ほこりが舞いあがる。右手に見えるこん 毘羅ぴら だけ から国見岳くにみだけ の上には夏雲がわずかに かれたように浮いていたが、あとは限りない青空だった。
(この城が間もなく落ちる・・・・)
緑をつづ って並んだ城下の屋根のうちでは、それを知っているのだろうか。
筑前の軍勢が入って来たら、何をおいてもまず真っ先にこの城下へ火を放つに違いない。
守る者が籠城と決まれば、攻めるものはまず周囲を焼き払うのが戦のつねであった。
そのときになって、火中で立ち騒ぐ群集を想像すると、お市の方は、改めてわが身の罪業の深さを想わずにはいられなかった。
小谷城の落ちるときもそうであったが、こんどもまたあの地獄の火の色を見ねばならぬとは・・・・
といって、お市の方に出来ることはもはや、ここで死ぬことだけであった。
人の噂では、この北陸の地は、兄の信長が、いちばん多くの人の生命を奪ったところだと聞いている。せめて、自分もここで死んで罪障ざいしょう の消滅を念じたい。
(この心は動かぬのだが・・・・)
お市の方は、南へ開いた勾欄こうらん に身を寄せかけるようにして、さっきから、その事を考えていた。
(わらわに死ぬなという者が二人ある・・・・)
一人は昨夜城へたどりついた良人の勝家であり、もう一人はわが子の茶々姫だった。
どちらも執拗だった。
勝家は夜明けの前にちょっと顔を見せて、
「── 事情は変わった。こなたにはこの城を落ちてもらわねばならぬ」
と、きびしい表情で言った。
お市の方が笑っていると、
「──わしは家臣の忠烈さに負けて、この城をひつぎ にする気になったのだ。棺の中にはこなたは入れられぬ」
き込んでそう言ったし、茶々姫はおりあるごとに死ぬ事は敗北なのだと説きつづけた。
むろんそれで決心の変わるお市の方ではなかったが、自分を生かそうと努めてくれている者が、この世に二人あるということは名僧知識の供養に勝る者に思えた。
(勝家とても同じはず・・・・)
と、お市の方には分っている。それだけにこんども相手にならず笑いとおして済ましたのだが、茶々姫の方は、まだ何か言って来そうな気がした。
(言って来たら、何と説こうか・・・・?)
考えるともなく、それを考えている時に、
「姫さまが三人揃うてお越しなされました」
と、侍女が言った。お市の方はひやりとして視線を屋内へ転じてゆく。外の明るさに馴れた眼に、遠山霞とおやまかすみ襖絵ふすまえ を背にして、三人並んだ姫の姿がひどく暗いものに映った。しかし、
「母さま、お願いがあって参りました」
茶々姫の声は、いつもと違って唄うようにはずんでいる。

「徳川家康 (九) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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